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シーンと静まる時間が、残り30秒のうちの5秒くらい流れた。
バアさんは俺の顔を覗き込んでから、歯の欠けた口をニヤリと引き上げて言う。
「あれは、ヒミちゃんの声だねぇ。
なるほどなるほど、あんたなかなか見かけによらずやるねぇ」
「そ、そんなんじゃないってば」
「でも、気をつけなよ、松さんはおっかないんだから。
可愛い孫娘に手をつけられたと知った日にぁあ、あんた、大事なとこちょん切られちゃうかもよぉ?」
松さんがおっかないのは、あのジイさんの財布を盗もうとした夜から、よくよく知ってる俺である。
けれども松さんは、ホームレスになりかけた俺を拾ってくれた恩人でもあるわけで、見かけによらない情の深さも知ってるつもり。
確かにヒミちゃんはお目々パッチリで、もう少しおしとやかにしてれば、かなり可愛い子だと思う。
でも俺にとっては、そんな女の子と友達になれただけで奇跡であり、それ以上のことは今のところ思いも及ばないことだった。
「ヨウタッ、10秒前だぞっ!
きゅうっ!……はちっ!……ななっ!……」
ヒミちゃんのカウントダウンが鳴り響く中、ピンクババアの手が、早く行けと言うようにヒラヒラ動いた。
猛ダッシュで垣根を回り、滑り込むように表に出ると、ゼロの“ゼ”まで言いかけたヒミちゃんが、その口の形のままで俺を見る。
いつもの、おでこを丸出しにして、頭の上で髪を結ったジャージ姿。
赤い巾着袋には、彼女が大切にしている卓球ラケットが入ってるはずだが、開口一番「遅い!」と言いながら、それを俺に振り回してきた。
「痛って、やめろよ。
遅れてないだろ、ギリギリセーフだろ!」
「そうじゃなくて、気合いの問題だよ。大会まであとひと月くらいしかないのに、ギリギリまで寝てんじゃないよ!」
ハキダメ通りの剥がれかけたトタン屋根越しに、青く澄み渡る空。
すっかり錆び付いた金網フェンスの下には、タンポポが1つ咲いている。
この場所特有の土埃臭い風を浴びながら、今俺は、19才の女の子とのじゃれ合いを楽しんでいた。
少し前の俺からしたら、それは考えられないような事で、こんなうららかな日射しやスポーツ、ましてや女の子との交流なんて、まるで縁遠いことだったのに。
こんな狭くて薄汚い場所が、自分に生まれ変わるきっかけを与えてくれたと思うと、体裁ばかりにしがみつく親父には「ざまぁ」と言いたかった。
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