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なのにこの日のイナズマさんは、珍しくヒミちゃんに歯向かってきた。
「じゃあ聞くがな、ヒミ。
その卓球大会とやらで仮に優勝したとして……それでどうなる?
俺たちの暮らしが少しでも良くなるか?
もらった賞状で飯が食えるか?
俺から言わせりゃ、そっちのほうが気休めの現実逃避だぜ」
いつもと少し違うイナズマさんの態度に、ヒミちゃんは言葉を返せず唇を噛んだ。
イナズマさんはペンホルダーのラケットを台に放り投げると、そのままのそりと背を向けた。
「“神の猫”はな、俺だってガキじゃねぇんだから、そらぁ世迷い言かもしれねぇとも思うさ。
だが卓球大会と違うのは、こっちはもっと暮らしに直結する御利益があるかもしれねぇんだぜ?
同じ現実逃避なら、俺は猫に賭けるぜ」
吐き捨てるように言った後、イナズマさんはポケットに手を突っ込み卓球場を出ていってしまった。
すぐにシャチョウが、
「待てや、イナズマ!」
と叫びながら後を追う。
思いもよらない、突然の波乱だった。
ヒミちゃんと2人、取り残された卓球場で、立て付けの悪い窓が風でガタガタ鳴っていた。
さっきまでの元気を失い、すっかりしょげかえったヒミちゃんが、黙って俯いている。
俺はゆっくりと卓球台に近より、上に1つピンポン玉を置いた。
中学時代の部活では、次から次へと玉は割れ、その都度新しいのを卸していたけど、
今の俺たちにとっては、この1つの玉だって貴重品。
たった1台の卓球台だってそうだ。
かなり古い型のゴツくて重いタイプだし、ネットなんかワカメみたいにフニャフニャだ。
でもそんな環境の中でも、俺はみんなと何かに取り組むことの楽しさを知り、気持ちが前向きに慣れたんじゃないか。
その結果、不定期だけど自分でお金を稼げるようになったわけだし、これだってちゃんと現実に直結してると思うんだ。
俺はラケット箱から共用のペンホルダーを1つ握ると、台に付いて言った。
「さぁ、ヒミちゃん、練習しよ。
イナズマさんだって、そのうちケロッと戻ってくるさ。
大会まで、ひと月ちょっとしかないからね」
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