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やがて打ちつけた腰が痛み始めてきた頃、降り注ぐ雪と一緒に、老人の低い声が降ってきた。
「俺の財布を盗ったところで、僅かな小銭しか得られんよ。
それよりも、天に恥じる生き方をすれば、いずれ必ず酬いを受けることになる。
小僧、覚えておくがいい」
言って老人は、そのまま背を向けたのものだから、思わず俺は首をもたげた。
てっきり警察沙汰かと思っていたのに、どうやらその気はないらしく、白い頭がそのまま離れていく。
俺に対する温情なのか、それとも取るにも足らないとでも思われたのか……
どちらにしても、これはつまり、俺は助かったのだろうか?
いや、違う。
ただ振り出しに戻っただけ。
ゴミはゴミのまま。
運良く焼却されずに、道端に放置されただけなんだ。
虚脱感が全身の力を奪い、俺は地べたに這いつくばったまま去り行く背中を見送った。
まともな人間にもなれず、悪党にもなれない俺は、いったいなんなのか。
誰か教えてくれ。俺は、どうすればいい?
誰か……
誰か……助けてくれ……
“グギュルルル……!”
そんな心の声を意図せず叫んだのは、俺の口ではなくて、盛大に鳴った腹の虫。
遠ざかりかけた老人が、それに反応して立ち止まった。
「小僧、腹が減っているのか?」
僅かなプライドが老人から目を反らさせる反面、藁にもすがりたい本心が首だけを縦に動かす。
少しの間を置き、老人から返ってきた声は、相変わらず低くはあるけど、さっきまでの威圧感が抜けていた。
「着いて来い。
飯くらいは食わせてやる」
「……え?」
「飯を食わせると言っている。
ときに小僧、お前、卓球はできるか?」
「はぁ?
卓球って……あのスポーツの卓球?
一応、中学の時にちょっと卓球部だった……」
「……そうか、ならちょうどいい。
ほら、いつまで寝てるんだ。
行くぞ」
あまりの予想外の申し出に、思わず目が丸くなる。
見ず知らずの、しかも財布を盗まれかけた老人が、その加害者に飯をおごるとはどういうことなのか?
それに卓球ってなんだ?
このジイさん、卓球が趣味で相手でも探してたのか?
さっぱり訳わからないうちに、黒いジャンパーがどんどん夜の闇へと埋もれて行ってしまう。
その背中を見失いかけた直後、俺は慌てて立ち上がり、老人を追って駆け出していた。
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