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どうやら俺は、地元の人間でもおいそれとは近づかない、アンダーグランドな場所に踏み込んでしまったらしい。
社会経験もないニートが潜入するには、あまりにも大冒険すぎて身が萎縮してくる。
嫌な予感しかしてない俺を、老人は意にも関せず、慣れた様子で話しかけてきた。
「見ての通りの所だから、たいしたものは出せないが……
それでもうちの料理は、決して不味くはないと思うぞ」
ずっとだんまりを決め込んでいた老人が、初めて振ってきた会話らしい会話だ。
長い無言の気まずさが、ようやく払拭できると言うのに、俺の声は喉に貼りついて出てこないでいる。
後悔が冷や汗となって伝う中、
それでも今さら引き返せない意地との天秤が、俺の靴を地面にへばりつかせてしまった。
「どうした小僧、腹減ってんだろう?」
「う、うん……」
「なんだ、ここまで来て怖じ気づいたか?」
「そ、そんなわけねぇだろっ!」
「そうか。
なら、行くぞ」
再び歩き出した老人を急いで追いかけたのは、こんな場所に1人で置いていかれるほうが、むしろ恐怖だったからかもしれない。
とにかく、異様な空気が漂うこの闇のどこかから、何者かの視線を感じるような気がして怖かった。
いや、視線だけじゃない。
暗がりに潜む“気配”みたいなものを、さっきから俺は確かに感じていたと思う。
そんな気配が、とうとう聴覚を通して存在を知らしめてきたのがその時。
2つの足音の僅かな間に入った小さな音に、俺は水でも被ったみたいに跳び上がると、おそるおそる振り返った。
ちょうど、チカチカと点滅を繰り返す街灯の下。
塀の上にいたシルエットは1匹の猫であり、俺は深いため息で胸を撫で下ろした。
それにしても、こんな場所には不似合いな、白くて、しなやかで、美しい猫だった。
額には赤みのある大きな斑点模様が、ワンポイントで際立っている。
忙しなく明暗瞬く電気の下で、猫はじっと俺を見つめているようだった。
「どうした小僧?」
「いや……猫が……」
「猫?
そんなものが珍しいわけではあるまい。
さっさと来ないと置いていくぞ」
「あ、い、行くから!」
慌てて歩き出して間もなく、なんとなく後ろ髪を引かれた俺は、少しだけさっきの塀を振り向いて見た。
そこにはいつの間にか猫の姿がなくなっており、チカチカと点滅する光の中には、雪だけが静かに舞っていたのだった。
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