河口

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里美とまた顔を合わせねばならないおっくうさが頭をよぎった。台所に行ったが里美はいなかった。不快感にいたたまれなくでていったのがよくわかった。本間は三村を愛していた。それは哀れみだったかもしれない、疎外された同世代におけるよるべなく心をひたすら引きあったからだからだろうか。その時分妻との性生活は、妻の死の十年前からすでに本間は不能になっていた。しかし、重職にいた彼は仕事をすることによってそれらの心理的な苦痛を相殺することができてきたのだった。部屋にもどると、三村は本間の手を握り「さみしかったんだ、純ちゃん会ってくれないから」哀れぽい悲しさのこもった訴えであった。  本間は今、泥沼にいる自分に気付いていた。しかし今、失うものは何一つないのだ。本間は静かに三村を抱いた。部屋が暗くなっているのに気付いた。本を読んでいるうちに寝てしまったらしい。電気をつける。古ぼけた漱石全集はめくれ、よだれのしみを作ってしまっていた。『こころ』を読んでいた。古本屋でもとめたのは終戦後のことである。何のつもりであろうか、延々と続く先生の告白の明治天皇の崩御のあたりにペンで落書がしてある。-忘れものあり秋は自嘲しー自分が作ったものだ。上の句はまだできていない。何もかも空しかったのだ。日々よみがえっていく街を見ながら、ただ一人とりのこされていく気持でいたことを思いだす。いったい自分はあの巨大な歴史的時間の中に何を忘れてきたのか。ふとぼんやりとそんなことを考え。頭をふり「ガラじゃないな」と否定してみるのだった。そうはにかんでみながら。     
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