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あれはいつ頃のことなのだろうか。出征の直前だったと思う。やはり秋のことだった。s市を流れる河の上流にある。温泉に、ひたすらに歩いて向っていたのだった。別に目的があった訳でもない。若気のセンチメンタルリズムとも言おうか。山々はうっすらと所々色付いていた。本間は風景をたのしむつもりで出てきたのであるが。目的そのものにすい寄せられるように、ただひたすら歩いていた。歩くことそのことが目的のように、そしてひたすら歩くその時が永遠に続いていくことを信じていたのだった。歩きつかれ、山あいをくだき流れ落ちる滝にじっと彼は見入っていた。それが本間の青春の終りでもあったのだ。
Ⅱ
本間の生れた村はS市を流れるA川の中流にあった。ちょうど市街から山あいに入りはじめ、A川にそった高台が彼の村であった。対岸は赤石連山の尾ぽにあたっていたが、千メートルもの山が屏風のようにそそり立っていた。-本間は自分の家の縁側に座りいつまでもこの風景をながめているのが好きだった。
彼の記憶にはもうかすかになってしまったが、ある事件が村に起こっている。赤い着物がゆらゆらと河面にうかんでいる。きれいに化粧をした女が村の道を歩いていく。たしかそれは田辺の家の長兄だった。死体は下流で醜くふくれてあげられた。田辺一郎。一っちゃん、一っちゃんと呼ばれていた。面長の色白でひよろりと細い、村芝居ではいつも女方でおどる姿は、村の人々の喝采をいつもうけていた。
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