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いつの頃からか一っちゃんの姿が見られなくなった。ふらりと村にやって来た興行師にみとめられて、玄人の劇団に入ったらしい。田辺の家では長男の芝居ぐるいは面白いものではなく、一っちゃんを土蔵に閉じこめてまで行かせまいとした。しかしある夜、一っちゃんはみごとに土蔵から脱出してしまったのだ。田辺のおやじはそれから、なさけないほどしょぼくれてしまった。それから何年かして、一っちゃんはもどって来た。はじめ、村には不釣合いの垢抜けた美しい女が来たことで、若い男達は大さわぎをした。しかしそれが一っちゃんであることはすぐにわかった。そして少しばかり狂ってしまっていたことも。 ほんのりと粉をまぶした。変に心をくすぐるかおりだった。村の女達ですらそんなににおいを持っている者などいなかった。
本間が、神社の森で蝉をとっている時だった。まぶしい光がさんさんと下りていた。「何をしているの」本間はびっくりしてふり向いた。一っちゃんが立っていた。いつも幼い本間達は一っちゃんを「やーい、やーい変な女、変な女」とはやしたり、石を投げて逃げたりしていた。一ちゃんは一言も言い返すことができず、立ちつくしていた。
「蝉をとっていたのね。見せて」
一っちゃんは本間の虫籠をさっととり上げた。一っちゃんは虫籠を両手でかかげ持ち、ジージーとうなるようにその鳴く蝉をみた。神社の森。そこだけが真夏の中で涼しい空間だった。薄暗かった。それでも木漏(もれ)日はギラギラとした。蝉しぐれは森の底にひびきわたっているはずなのに。どこか遠くで聞こえていた。寂かだった。
「かわいそ」と一っちゃんの、紅をさした、小さなまるい、ぬれた唇からそうつぶやいた。
「セミはね、何年も何年も土の中でくらすの。じっと、じっとね」少年はじっとしていた。一っちゃんの前では指一本、動かせない気がした。
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