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◆◇◆◇
「うー、寒ーう」
職場である大学から、マッチ箱くらい小っこい我が家への帰り道。剃刀のような切れ味鋭い北風に容赦なく嬲られながら夜道を歩く。
防寒の為に、立てた襟の前を手でしっかりと閉じ、肩を窄めて前傾姿勢を取る今の姿に、つい、ガードを固めるボクサーをイメージしてしまう。
("絶対王者・木枯らしVS弱小ボクサー・立て襟の文緒"ってか。馬鹿考えてねーで、早よ歩こう。オレはコイツの相手をせにゃならん)
にまりと笑い、視線をくれたのは、小脇に抱える縦長の風呂敷包。
それはズシと重く、歩く度に中身がチャプチャプと魅惑的な音を立てて揺れる。
綺麗なおべべを着せられたコイツは、鯖や鯵がべらぼうに美味い、九州の某所よりやってきた別嬪さん。
地元の美味い米と水で拵えた、上モノの日本酒だ!
(あー、ありがたいねえ。こんな上等な酒、オレみたいなビンボー学者の口にゃ、滅多に入んねぇもんな)
満タンな瓶ほど持つのが億劫なモンはないけれど、中身が酒なら話は別で。
酒好きな人間に掛かれば、このずっしりとした重みさえもが愛しい。重けりゃ重いほど、イイ! のである。
(コイツをくれたS先輩には、足を向けて寝れないな。あー、あと、アレにも)
酒をくれた大学時代の先輩と、この酒をオレが貰うに至った理由をくれた、昔馴染みの腐れ縁のことを思い出す。
ついでに、この酒に纏わる、ちょっとした面白い逸話も。
この酒の贈り主であるS先輩は、オレが大学時代にお世話になっていた下宿先の隣人だ。
先輩が大学卒業後、出身地の九州某県に戻るまでの三年間、オレは彼から生活のイロハを学んだり、彼のご実家から送られた食料をお裾分けされたりと、大変にかわいがって頂いた。
大学での専攻は異なり、大学構内では特に接点もない、謂わば、只の隣人でしかないオレ達が、お互いに社会人になって久しい今でもこうして交流が続いているのは、世話好きで義理堅く、そして筆マメなS先輩の性格によるところが大きいのだろう。
で、その大学時代の恩人が、何故、オレに酒を贈ってくれたのか。
それは、S先輩を悩ませる怪奇現象を解決し得る人物をオレが紹介したからだ。
(しっかし、面白い事件だったよな。酒蔵ならではというか)
『酒蔵』というのは、S先輩の就職先でもあるご実家の営む酒造会社のことで、彼を悩ませる怪奇現象が起きた舞台でもある。
事件は、S先輩が酒蔵の跡継ぎとして、酒造の手伝いを始めた年から毎年欠かさず起きていた。
その内容は、先輩曰く、
――醸造途中の酒がな、減るというか、なくなっちまうんだ。しかも、上等なもんばかり。
親父も祖父さんも、放っておけ、の一点張りで話にならん。
ウチの蔵人に不埒な輩がいるとは思えんが、量が量だけにどうにも無視できんでな。
おまけに、俺が酒蔵に入った年から起きたもんやけん、俺が失敬してるんやないかと揶揄る者もいて、正直、参っとる。
……とのこと。
――手紙ではなく、偶には、先輩の声を聞きたい。
そんな思いつきでS先輩に電話をしたところ、余程思い詰めていたらしい彼は、こんな一介のビンボー学者に、弱音混じりで事件のあらましを教えてくれたのだ。
醸造中の酒が減ると聞き、真っ先に思い浮かぶのは、洋酒でよく言われる"天使の取り分"だろう。
これは、酒を熟成させている間、蒸発した酒が樽から滲み出る現象で、それによって減る酒の量は1%から3%程度と言われている。
一方、くだんの酒蔵でなくなった酒は、樽の三分の一、酷い時は半分。
年々、なくなる量が増えるものだから、先輩は歯痒くて仕方がない。
――天使の取り分だあ?
あの冗談みたいな減り方、天使なんてお上品なもんやねえ。ウワバミや!
冗談とは言え、自らに酒を盗んだ容疑を掛けられたせいか、先輩はかなりご立腹だ。
だが、そんな哀れな先輩には申し訳ないが、オレはこの話を聞いて、密かに興奮していた。
先輩の口からウワバミと出たことで、端くれとはいえ、民俗学者の血が大いに騒ぐのだ。
まるで、かの悪名高きヤマタノオロチと八塩折の酒を彷彿とさせるではないか。
できることならば、くだんの酒蔵に取材……失敬、事件の調査をしたいところだ。
けれども、こちとらビンボー暇なしの身分。毎日身を粉にして働いて、手前の食い扶持を稼がにゃならん。職場の上司も、オレが仕事をサボって、九州くんだりまで赴くことを易やすとは認めちゃくれないだろう。
大学時代の恩人が困っている。
オレも、ことの真相を知りたくて堪らない。
さあ、どうする?
(なあに、答えは簡単だ)
――随分とお困りのようですね、先輩。では、こうするのはいかがでしょう?
ある男をご紹介します。そいつは探偵でも警察でもありませんが、今回のような怪奇現象に精通している奴でして。必ずや、先輩のお役に立つでしょう。
――そいつの名は――
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