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「熱燗だろう。つけておく」  飯の仕度を粗方終えてから銭湯に向かう途中、復路を行く矢潮がすれ違い様に告げる。 (おうおう、出奔するまで手前の世話もろくすっぽできなかったお坊ちゃんから、燗をつけて貰える日が来るとはな)  昔馴染みのちょっとした成長に感激しつつ、銭湯で体の芯まで温まり、とっとと帰宅したオレを待ち構えていたのは、炬燵の上で並ぶ酒と肴だった。 「矢潮! お前、ホンットに成長したな。オレぁ嬉しいぞ」  きちんと温められた飯と、適度に燗をされた酒。完璧じゃねえの。 「ハハッ、徳利の口スレスレまで酒が入ってら。サービスがいいな」  徳利の口の部分で見られる表面張力に笑いつつ、程なくして銭湯から戻った矢潮と互いに酌をしてから、事件解決を祝して乾杯する。  腐れ縁と二人、同時に仰いだ酒は、オレの中の美味い日本酒の閾値を軽々と越す最高のものだった。  酒を口に含んだ直後は、辛さで舌の端がジンと痺れるが、後から米の旨味とほのかな甘みがじんわりと舌中に広がる。  そして、特に素晴らしいのが、香りだ。  猪口の中で酒が揺れる度に立ち上る湯気は、清酒特有の米の芳醇な香り。なのに、酒を舌の上で転がすと、果実みのある香りに変わり、鼻へ抜けると、ほんのり炊きたてのご飯の匂いがするのが、実に面白い。 「こりゃ、驚いた。以前、オレの成人祝いに、先輩が奮発して同じ酒をくれたんだが、あの時のものより格段に美味いぜ、コレ」  正に、甘露と呼ぶに相応しい酒の味に驚いていると、当然だ、と矢潮が徳利を手に告げた。 「コイツは撤饌(てっせん)――神の供え物のおさがりだ。美味くないわけがない」  手酌する矢潮をそれとなく見遣りながら、頭の中で先の台詞を反芻する。――うん? するってえと、つまり―― 「おい、コイツはくだんの『ウワバミ』の樽から搾ったモンってことか?」 「恐らく。あちらで頂いたものと同じ味だからな。だがな、誤っても、ウワバミなぞと呼ぶものではない。罰が当たるぞ」  唇に付いた甘露の雫を指で拭った矢潮は、美しくも妖しげな笑みを浮かべて、指の雫を舐め取った。  ――あの祓い屋さんを紹介してくれたこと、本当に恩に着る、文緒。    もう、あの件で俺が気を揉むことはなくなったんだからな。  S先輩の、数年に渡って続いた悩み事――醸造中の酒が減る怪奇現象。  先だって、S先輩は電話にて、くだんの件について、俺に事後報告とお礼の言葉を述べてくれた。  受話器から聞こえる彼の声は実に晴れやかで、矢潮の祓い屋としての能力と知恵が、彼の懸念をも払ったのは明白だ。 「矢潮、お前、良い仕事したな。それで、かの酒蔵にはどんな真相が隠されていたんだよ?」 「フン、怪奇だなんだと騒ぐのも愚かしく、態々蓋を開けるまでもないことだ。アレは――」  矢潮と酒を酌み交わしつつ、ことの顛末を聞き出してみれば、仏頂面の語ったソレは、オレの予想を遥かに超えて面白いものだった。  敢えて、結論から先に言わせてもらおう。  くだんの怪奇現象は、オレが端から予想していたとおり、人為ではなかった。
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