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『十年経ったから結婚しよう』
いつもと同じく馴染みのバーで、浩之からそう告げられた私が返したのは、なんとも気の抜けた返事だった。
「……へ?」
待ち合わせに私が仕事で遅れて到着して、カウンター席で浩之の隣に腰掛けた瞬間だった。
目の前のテーブルにはまだ、カクテルの一つも置かれていないのに。
私が来るまでにどれだけ飲んだのかと勘ぐってしまいそうな発言に、私の頭は一瞬で真っ白になってしまった。
「お前言っただろ、卒業の時に。十年後、お互いに相手がいなかったら結婚しようって」
大人のムード漂う薄暗い店内でも、私を真っ直ぐ見つめる浩之の瞳だけはよく見える。
いつか交わした懐かしい約束の内容を、彼が口にしてくれた時、私の前に透き通った琥珀色のカクテルが一杯差し出された。
恐らく浩之が前もって頼んでいてくれたのだろう。
バーテンダーさんがカクテル名を告げてくれたけれど、私の意識は浩之だけに注がれていて、それを聞き取る事は出来なかった。
十年も前の古い約束を、まさか覚えていてくれたなんて―――
驚きと同時に湧き上がったのは、嬉しさだった。
大学卒業から十年、お互いに知る友人達のほとんどが結婚し、子供を作り、家庭というものを築いていった。友人にも家族にも、相手はいないのか、結婚はしないのかと、日々急かされていた。
いつか浩之とそうなれたら―――そんな風に思った事は一度や二度では無かった。
私の心は、いつの間にか彼だけしか見ていなかったから。
だけどまさか、その願いが叶うかつての約束を、彼の口から聞かされるとは思ってもいなかったのだけれど。
「確かにそんな約束したけど……でも、本気?」
「嫌か?俺と結婚するの」
驚く私に、浩之がふっと笑って目を細めた。その仕草に、普段は見えない色気を感じてドキリとする。
「嫌じゃ、ない、けど」
これまでとは違う空気に、私はそう答えるのが精一杯だった。
そんな私に、浩之は「じゃあ決まりな」と笑って言って、自分のグラスを私のグラスに軽く当てて、弾むような綺麗な音を鳴らした。
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