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イレギュラー。その人物が入ってきた時、お帰りなさいでもお疲れ様でもなく、浮かんだのはその言葉だった。隣の課の営業職の主任。矢中貴志。どうしてこんな時間に。
「なにそれ、え、ゴキブリ並べてるの?」
「違います」
「ダンゴムシ?」
「違います!」
つかつかと寄ってきた矢中に否定する。
デスク上には月面クレーターもかくやというぼこぼこになったチーズケーキと、ティッシュペーパーの上に並べられた黒い粒々――ほじくり出されたレーズンがあった。
「小田原さんのこと嫌いなの? 大丈夫、おれ口堅いから」
小田原とはこのケーキの生みの親であり、早季子の先輩である女性のことだ。
「違います」
「じゃあ好き?」
「好きではないですけど」
思わず素直に言ってから失言だったと気付くが、矢中はそこには喰い付いてこなかった。
「レーズン嫌いなの?」
「いえ、はい、まあ」
「大人なのに?」
「好き嫌いに大人も子どももありません」
「いや、ほじくり返すほう」
ぐっと返答に詰まる。いたたまれなくなって、捨ててしまおうと隠すように手で覆えば、
「捨てるの? だったらちょうだい」
え、と戸惑う。惜しいものではない。けれど食べ残しを一応の先輩であり、しかも異性に譲るのは抵抗がある。逡巡しているうちに、矢中はこちらの手をかいくぐり、指先でレーズンを摘み出した。
「……甘いもの、好きなんですか?」
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