京都へ

1/13
前へ
/13ページ
次へ

京都へ

 捨てるべきだろう。  男は画面に少しヒビの入ったスマートフォンを見つめる。家族、社会、人生。  そして今度の事件・・・。  すべてのものと訣別する以上、これは不要だ。  ここには過去が記録されている。男は躊躇する自分をあざ笑う。もう後戻りは出来ない。彼はこの小さな精密機械が他人の手に渡ることを恐れた。  目黒川に架けられた橋の欄干。背後を通る人々にけどられないよう男は手の力を抜く。  愛用のスマートフォンは、小さな水音をたて視界から消えた。  機能を終えた道具。  次は自分だ。俺もその役目を終えなければ。  男はそう自分に言い聞かせる。だが漠然とした死の恐怖が、彼をひきとめた。 〈数日は生きよう。俺は今解放されている。完全な自由だ。こんなことはこれまでの人生で一度もなかった。・・・だが何をすればよいのか・・・〉  彼はあたりを見廻す。激しく車の往来する幹線道路を渡るべきか。しかしその先には見慣れた風景しかない。彼は駅に戻ることにした。  駅の構内。改札では出入の人々が足早に通過していた。目的を失った男にとって、社会は新鮮に映る。駅をゆっくりと歩く。ちいさな駅のコンビニ。柱近くにたたずむ若い女性。待ち人はスマートフォンに夢中だ。駅の壁には旅行を勧誘するポスターがすき間なく貼られていた。 「・・・京都か」  清水寺をあしらった陳腐なポスターが彼を惹きつけた。男は、古都に馴染みがあった。  死までの限られた時間を過ごす場所・・・。  曖昧な目的を果たすため、男は駅を出てATMを探す。道を隔ててATM設置の大きなコンビニがあった。  店でカードを取り出したとき彼は気が付く。 〈この防犯カメラには俺が写っている。やがて警察が俺の姿を確認するだろう。おろした金額も時刻も彼らは知ることになる。・・・逃亡資金として貯蓄のすべてをおろしてしまおう。二度と記録を残さないようにしなければ〉  その時、妻の顔がよぎる。 〈家族はどうなる。俺を失えば生活に困窮するではないか。金を残しておかなければ・・・彼女は犯罪者の妻として社会から責め続けられる・・・〉  悔恨が激しい勢いで彼を押しつぶす。  後ろに学生が並んだため男は現実に引き戻される。男は三十万を引き落とすと急ぎ店を出た。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加