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一流大学出身でありながら男は官僚試験にことごとく落ちた。すべりどめの二流官庁ですら彼を拒んだ。たまたま政権をとった新党の雑用で糊口をしのぐうち、男は若い代議士の秘書に抜擢される。だが数年で党は解散。仕えた若い代議士も落選。
〈そんな俺を尾崎は負け犬として雇う。俺は先輩たちを押しのけるために奴の裏仕事に手を染めた〉
男は、彼を認めなかった官僚に対する憎悪を生きる指標としていた。与党重鎮の秘書として、尾崎が関わるすべての裏金を彼は管理した。工作に邪魔な官僚の試算や計画を何度も潰す。
突然、男は立ち上る。追い詰められた彼の思考は、無意識に肉体を動かす。
〈裏帳簿が残っている! あれが検察に渡ったら・・。暗号を使っているが、額はそのままだ。暗号を苦手とする尾崎の指示だ。ああ、俺は計算も出来ぬ阿呆に仕えていたのだ〉
男の突拍子のない行動に気付いた乗客はいなかった。彼はとりつくろうためゆっくりと座る。
〈・・・帳簿。そんなことは知ったこっちゃない。俺は死ぬ。後のことなど・・・〉
知性が感情を説得した。だが彼を揺さぶるのは悪事の露見ではない。
彼が関わったその政治スキャンダルは、自殺者を出していた。
〈職人気質むきだしの中小企業経営者・・・〉
車内販売が通る。男は馴れないウイスキーを注文する。死者の映像から逃れる方法が酒ではないことは彼にも判っていた。
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