2人が本棚に入れています
本棚に追加
京都へ
捨てるべきだろう。
男は画面に少しヒビの入ったスマートフォンを見つめる。家族、社会、人生。
そして今度の事件・・・。
すべてのものと訣別する以上、これは不要だ。
ここには過去が記録されている。男は躊躇する自分をあざ笑う。もう後戻りは出来ない。彼はこの小さな精密機械が他人の手に渡ることを恐れた。
目黒川に架けられた橋の欄干。背後を通る人々にけどられないよう男は手の力を抜く。
愛用のスマートフォンは、小さな水音をたて視界から消えた。
機能を終えた道具。
次は自分だ。俺もその役目を終えなければ。
男はそう自分に言い聞かせる。だが漠然とした死の恐怖が、彼をひきとめた。
〈数日は生きよう。俺は今解放されている。完全な自由だ。こんなことはこれまでの人生で一度もなかった。・・・だが何をすればよいのか・・・〉
彼はあたりを見廻す。激しく車の往来する幹線道路を渡るべきか。しかしその先には見慣れた風景しかない。彼は駅に戻ることにした。
駅の構内。改札では出入の人々が足早に通過していた。目的を失った男にとって、社会は新鮮に映る。駅をゆっくりと歩く。ちいさな駅のコンビニ。柱近くにたたずむ若い女性。待ち人はスマートフォンに夢中だ。駅の壁には旅行を勧誘するポスターがすき間なく貼られていた。
「・・・京都か」
清水寺をあしらった陳腐なポスターが彼を惹きつけた。男は、古都に馴染みがあった。
死までの限られた時間を過ごす場所・・・。
曖昧な目的を果たすため、男は駅を出てATMを探す。道を隔ててATM設置の大きなコンビニがあった。
店でカードを取り出したとき彼は気が付く。
〈この防犯カメラには俺が写っている。やがて警察が俺の姿を確認するだろう。おろした金額も時刻も彼らは知ることになる。・・・逃亡資金として貯蓄のすべてをおろしてしまおう。二度と記録を残さないようにしなければ〉
その時、妻の顔がよぎる。
〈家族はどうなる。俺を失えば生活に困窮するではないか。金を残しておかなければ・・・彼女は犯罪者の妻として社会から責め続けられる・・・〉
悔恨が激しい勢いで彼を押しつぶす。
後ろに学生が並んだため男は現実に引き戻される。男は三十万を引き落とすと急ぎ店を出た。
最初のコメントを投稿しよう!