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「そ、そんなことはない! 僕は貴女のことを、ずっと忘れてはいなかった」翔弥は圭子を抱いた手をほどいて、彼女の頬を包んだ。「あの頃の貴女への想いは、ずっと心の奥に残ってた」
圭子は安心したようにため息をついた。「知ってる」そして静かに目を閉じた。「貴男のその記憶が、私をここに連れてきた」
「記憶……」
「貴男の中にその記憶が残っていることが、私を苦しめてたんだ……」
「え? 苦しめてた?」
「ごめんね、そんなこと言うと、貴男を追い詰めることになっちゃうね。そうじゃなくて、私、貴男のその記憶に抱かれたかった……」
「記憶に……抱かれる……」
翔弥は圭子の口にした言葉の意味が何となくわかるような気がした。たった今圭子を抱いたのは、おそらく、目の前の圭子に燃え上がったからではない。昔の彼女への自分の想いがそうさせたのだ。
「三年も私を想い続けてくれた狩野くんを、好きになりたかった……」
「僕は、今の貴女に何をしてあげられたんだろう……」
「翔弥くん、貴男が今、そんなこと考える必要はないよ。私、もう、十分。すっかり透明になった」
「透明に……なった?」
「白いキャンバスに描きたいことは、もう……残ってない。ありがとう。狩野くん」
翔弥は再び圭子の身体を抱いた。空気のようにふわりと柔らかく、しかし雪のように冷たかった。
「明日の朝、送っていくよ。家まで」
「大丈夫。一人で大丈夫。ちゃんと行けるから」
「君の家も知っておきたいし……」
「だめ。教えない。言ったでしょ? 今夜だけだって。何度も言わせないの」圭子は寂しそうに笑った。
「……そうだね」
翔弥の胸に頬を寄せ、圭子は上目遣いで小さく言った。「私、狩野くんに抱かれて眠りたい。いい?」
「もちろんだよ」
圭子はすぐに寝息を立て始めた。やがて翔弥も深い眠りに落ちていった。
3
不意に目を覚ました翔弥は、ホテルの大きなベッドに一人で横になっていた。
「えっ?」
翔弥は身体を起こした。枕元に封筒が置いてあった。表書きに『宿泊代』とあの年賀状の宛名と同じ字体で書かれていた。壁の時計を見た。針は七時半を指していた。
「圭子さん?」翔弥は辺りを見回した。ベッドから降りて、バスルームを覗き、また言った。「圭子さん」
圭子はもうその部屋にはいなかった。翔弥の指先に、まだあの背中の冷たさが残っている気がした。
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