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「そうなの? 僕は全然意識してなかったよ。そんな深いところまでさ」
「意識してなければ無意識に、ってことだよね。その後も、貴男が描く絵は、シンプルで、主張とか思いとかがあまり表現されていなくて、とってももどかしい感じがしてたけど、ずっと見てると、その背中や、壁や、暗闇で見えない、向こうにあるものが見えてくる。その思いが少しずつ心に染みこんでいく、そんな絵だったもの」
「僕は、」翔弥は静かにグラスをコースターに戻して言った。「今でも自分の想いを、相手に伝えるのがうまくない。自分でももどかしいと思う」
「でも、伝えたい人には、ちゃんと伝わってるよ」
「そう上手くはいかないよ」翔弥はうつむいた。
「少なくとも、私には伝わってた」圭子がしばらくしてぽつりと言った。「でも、応えられなかった、あの時の私」
「圭子さん……」
「私ね、まだ結婚してないんだ」圭子は両手を広げて見せた。指には何もついていなかった。控えめな薄いピンク色のマニキュアが施された爪は異様に細く、透き通るように白い指は、まっすぐに伸びていた。翔弥は思わず彼女の右手を両手で包みこんだ。その手は氷のように冷たかった。
「大丈夫」圭子は笑った。「私、貴男の家庭を崩壊させるつもりはないから」
「僕も、そんな勇気はない。今でもね」
「私、もちろん、貴男にとっても会いたくて、電話した。でも、貴男が私に夢中になることもないってことはわかってる」
「この歳になると、ますます臆病になっちゃって。おまけにずるがしこくなっちゃって、こうして素敵な女性といっしょにいられたら、いろんなことを想像するんだ」
「いろんなことって?」
「僕はもう長いこと妻とは寝ていない」
「それって、セックスレスってこと?」
「そ、そうだね。僕は時々そんな気になるけど、彼女はもう僕を受け入れるつもりはないらしい」
「つまり、女性を抱きたくなっても、奥さんが応えてくれない。だから、他にチャンスがあったら走っちゃうかも、ってこと?」
「そのくせ風俗に行く勇気もお金もない。まったく臆病者だよ。僕って」
「今、この時はチャンス。そう思ってるってこと? 狩野くん」
「……」
「黙っちゃうんだ……」圭子は少し寂しそうに言った。
「圭子さんが、」翔弥はゆっくりと口を開いた。「僕と今夜寝てくれる、ってことになればいいな、って思う。でも、それは不倫だし、圭子さんに対しても申し訳ないし」
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