0人が本棚に入れています
本棚に追加
「そう……」
翔弥は圭子の身体を抱いたまま、しばらく言葉を発することができないでいた。心なしか圭子の背中の冷たさは、次第に肩や胸の辺りまで広がっていっているような気がした。
「君が小学生の時に短冊に書いた『真っ白なキャンバスに描いてみたい』っていう、言葉。僕は忘れていない」
「ほんとに? よく覚えてるね」
「好きだったから。貴女が」
「うん。『貴女』……。その距離に戻ろう。私のこと、もう『君』なんて呼ばないでね」
圭子がどうしてそんなことを言うのか、翔弥には理解できなかった。
「私、まだあの夢、実現させてない。っていうか、実現できなかった」
「どうして? 絵の勉強、ずっと続けてたんでしょ?」
「うん。目標は100号のキャンバスに思いっきり描くこと」
「100号! そりゃすごい! でも、もう十分そのくらいの腕はあるんじゃないの?」
「絵の勉強してるとね、もっと上達してから、まだまだ技術が足りない、ってどこまでも欲が出てきて、先延ばししちゃうんだ。狩野くんだってそうじゃないの?」
「僕はもう長いこと絵からは遠ざかってるからね。でもわからないでもない。その気持ち」
「自分が自分に満足できたら、ってずっとそのまま」
「描いてみなよ。だめだって思ったらまた描けばいいじゃん」
「何かね……。私の拘りっていうか……」
「そうなんだ……」翔弥は目を閉じた。
圭子の息は、穏やかさを取り戻していた。
「圭子さんは、どうして僕を誘ったりしたの?」
「……」
「っていうか、どうして急に僕を思い出したりしたの?」
「記憶……」
「記憶?」
「私はずっと独身だった。でも、別に好きな人がいなかったわけじゃないし、つき合った人も何人かいた」
翔弥は圭子の目を見つめてうなずいた。
「あのね、私、貴男に抱かれていながら、今さらこんなこと言うのも変なんだけど、」
「うん」
「私、自分の人生の中で、特別貴男に対して熱烈な恋心を抱いていたわけじゃない」
「……」
「今も、昔も、貴男が一番好き、っていうわけじゃなかった」
「……答になってないよ」
「そうだね。でもね、私、ただ身体を満足させて欲しくて貴男を誘ったわけじゃないの」
「そう……なの」
「貴男はどう? 私の身体で気持ち良くなるためだけに、ここに来たの?」
最初のコメントを投稿しよう!