彼は誰時

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 八尋は東京で見つけたといって平太に着物や菓子、難しい哲学書や小説、煙草や葡萄酒などを贈ってきていた。頻繁に贈り物をもらい、平太も申し訳なかったので八尋に「なにか欲しいものはありますか?」と手紙に書くと「平太のものが欲しい」と返ってきたことがあった。平太は考えて、幼い頃から持ち歩いている身体健全のお守りを贈った。すると八尋から「ありがとう。お前だと思って肌身離さず持つ」と嬉しい返事が返ってきた。まるで恋文のようなやりとりに、平太は浮かれた。手紙のやりとりだけでも恋人のような気分を味わいたかった。それだけで充分だと思っていた。  つい先日も八尋から「研究が忙しい」と書かれた手紙がきたばかりだった。その手紙には帰省のことなど書かれてはいなかった。 「あの坊ちゃんのお嫁さんなんて大変だろうねえ。あんたがちゃんと花嫁修業してあげるんだよ」  女中はバンッと平太の背を叩くと、仕事に戻っていった。平太は呆然としたまま、箒を手から取り落してしまった。久しぶりに八尋と会えるのは嬉しいことなはずなのに、今は帰ってきてほしくなかった。平太は八尋に対する気持ちに蓋をし続けてきた。八尋が結婚するまでの間は、八尋のことを恋い慕ってもいいだろうと思っていた。だがあと少しでその期間も終わろうとしている。  庭の池の水面に、平太の顔が映った。そこには二十九歳のくたびれた男の顔が浮かんでいた。
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