疼痛がジクジクと

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 最後に涙を流したのは、いつのことだっただろう。小さい頃に泣き虫だったからか、学生時代の途中で涙の貯蔵庫は綺麗さっぱり空になったように思う。あんなに泣き虫だったのに、高校の卒業式で涙を流した記憶がない。ということは、高校生の頃に最後の涙を流したはずなのだ。その頃に何人かの男の子と付き合っては別れ付き合っては別れを経験して、その都度大げさに泣いていた。そういった恋愛絡みの涙が私の最後の涙だったのだろうか。  父親が亡くなった時にも、私は泣いていた。それは高校三年生の頃で、受験までもう少しだったような気がする。ということは、高校生活の終盤までは涙は枯渇していなかったはずなのだ。最後の涙の所在が知りたい。  違う。私が本当に知りたいのは涙を流せない理由で、私が本当に求めているのは涙を流せる自由だ。  どうして私がなんにもない風を装い続けなければならないのか。感情がいくつも複雑に絡まりあう。それはパーマでうねる毛を括っていたゴムに纏わり付いた髪の毛のようで、無理矢理に引っ張ったところで千切れてしまい痛みと後悔が残る。でもそんなのは時間が経てば抹消されていく記憶でしかない。結局のところ私はどうしたいのだろうか。いまだ手の甲に出来た傷はジクジクと疼痛を残している。この傷が治れば、後悔と誰にも興味の持たれない悩みという、手の甲の傷と同じジクジクしたものから解放されるのだろうか。解放されたいのだろうか。一生ジクジクしていたいような気もする。  私の分身は今日も家にいない。分身などと大層な言い方をしてみても実際は分身などではないと自分でも理解はしている。それでもそれを分身と呼ぶことで、分身の経験を自分が追体験しているのだという浅はかな考えが脳の隅にこびりついているから、私はいまだにそれを分身と呼んで、こっそりと追体験した気分になっている。そんなジクジクとした性格をしているから、あの男を奪われたのかもしれない。左右が反転した程度の違いしかない双子の妹に。
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