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その海水浴場で覚えているのは、もう一つある。断定は出来ないけれども、能舞台らしきものを見た記憶がある。しっかりとした屋根付きの、三方を開け放した三間四方の本舞台だ。相当に古い建物で、あちこちが朽ち果てかけている。本来なら橋懸かりがあるはずなのだろうが、本舞台のみが残っていた。
鏡板らしい奥の板には何やら描かれていたらしい跡があるけれども、かすれ状態が激しく判別できなかった。松の絵が描かれているとすれば、間違いなく能舞台と言うことになるのだけれども。そもそも、浜辺に能舞台が存在するのかどうか、もししていたら何故なのか、興味は尽きないけれども、10歳ほどの子どもが興味を持つことではなかった。
一度その板の上で跳ね回っているときに砂が原因で滑ってしまった。ささくれだった板の切れ端でふくらはぎから大量の血が出て――当時の私にはそう思えた――大声で泣きながら戻った。その夜に父の知ることとなり、兄がこっぴどく叱られた。
「一人で遊ばせるな!」
「だって、かってにどこかに行っちゃうから」
そんな弁解で矛を収めるような父ではない。かえって怒りを誘い「わしの言うことが聞けんのか!」と、平手打ちが飛んでしまった。私はと言えば、父の膝の上で拍手をせんばかりに上機嫌だった。同じ年頃の子どもがいない私にとっては、兄だけが遊び相手だったのだ。いくら道理の分からぬ幼子だとはいえ、兄には申し訳ないことをしたと思っている。
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