月ノ森奇譚

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 笛が鳴き、声が応える。  ふたつの距離は確実に近づいていた。  奴らはもう、私の存在に気づいているはず。  葉擦れの一枚一枚にすべての感覚が研ぎ澄まされる。  早く来い。もっと近づいて来るがいい。お前らの好物がここに居るぞ。  昂ぶる気持ちを抑えてえびらから脇越しに一本抜くと、下段に構えた弓に矢をつがえた。  樹木の不気味な陰影に囲まれ、神経がさらに張り詰めてゆく。  背中をひと筋の汗が流れ落ちた。  笛が鳴く。  笛が鳴く。  笛が鳴――。  背後の藪で気配が生じた。  瞬時に身をひるがえしながら弓を引き絞る。  暗がりから突き出された錫杖の柄尻がかずらの目の前で止まった。  狙いを定めた矢じりを、みそぼらしくも精悍な顔の僧侶が鋭利な目で受け止めていた。 「猿神じゃあ……ないのか?」  千毒の表情に戸惑いが浮かんだ。  かずらの男装姿に好奇と困惑の眼差しを向けている。  かずらは呼ぶ子笛を吐き捨てた。 「少なくとも、乞食坊主に知り合いはいないわ」 「俺も男勝りな女に見覚えはねぇさ」  目元を和らげてゆっくりと錫杖を下ろした。  千毒が見せた思いのほか優しげな眼差しに、今度はかずらが戸惑いを覚える。  それでも充分に引き絞った弓を身構え続けた。 「俺が人間だと分かったんなら、そんな物騒なもんは下ろしてくれよ」 「こんな真夜中に、こんな場所で出会った男を信用出来ると思って?」 「仮にも僧侶だぜ? 酷い云い草だな」  苦笑いを浮かべて頭を掻いた。  ふけが正色の濁った月明かりに舞い散り、かずらは眉宇をひそめて嫌悪感をあらわにする。 「汚らわしい坊さまは特に信用しないことにしているの」 「ならば、同志ではどうだ?」  穏やかだった千毒の表情が引き締まり、錫杖を振り上げてかずらに向かって突進した。  かずらは落ち着いた動作で千毒から狙いを逸らすと、枝葉の一角に目がけて矢を放つ。
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