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赫い木漏れ日の中、樹木の隙間を縫うようにちらちらと影が瞬いている。
わざと付かず離れず森を駆け抜ける狒々の後ろ姿に千毒は目を細めた。
惑わされるなよ。
強く自分に云い聞かせるものの、樹木の陰に消えては現れる葡萄唐草の柄が幸せだった日々を思い起こさせる。
袈裟懸けに施された蔓草文様は、千毒がまだ農民だった頃、将来を誓い合った娘に贈った着物の柄であった。
狒々が人間の記憶から引き出したまやかしだと頭では理解していても、葡萄の蔦に心の隙を侵され、するすると魂を絡み取られてゆく。
自分に向けられる娘の笑顔。
捨てた名前を呼ぶ懐かしい声――、声――、――ッ!!
……そうだったな。俺もあの日に死んだんじゃねぇか。
囚われていた意識が目を醒ました。
猿に頼るまでもねぇ。
今度は自らの意思で記憶を掘り起こす。
忘れたくても忘れられない過去。最期に見た無残な光景。引きちぎられた夏蔦が赤く紅葉して――。
込み上げる憎悪が千毒を現実に引き戻した。
あんまり人間様を舐めんなよ。
腰まわりにぶらさげられた瓢箪のひとつをもぎ取ると、埋め込まれた栓を親指で器用に弾く。
瓢箪の中身を一気にあおった。
「ぐっ!」
喉が焼け、臓腑が焦げる。
視界がゆがみ、軽やかな足取りの小袖姿が消えた。
霞む視線が狒々の視線とぶつかると、千毒は凄みをにじませてにやりと嗤った。
狒々の表情がひきつり慌てて身をひるがえす。
よぉし、そのまま仲間のところまで連れて行きやがれ。
毛むくじゃらの背中を睨みつけた目は毒と怒りに血走っていた。
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