デートは武道館で(転の章の始まり)

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 我が国善高校の大将は主将である西郷三四郎。彼の父親は長女、次女と授かったが、待望の男の子が生まれたので、長男なのに三四郎と名付けたほどの柔道馬鹿。オリンピックの銅メダル選手だったらしい。息子にかける金メダルへの期待はハンパなく、小さい頃からの英才教育はスパルタだったらしいが、三四郎はめげることなく、曲がることなく、心技体調和した立派な柔道家に育っている。今どき珍しい若者だと、珍しく祖父が褒めていたから覚えているよ。 「始め。」  会場にいる全ての者が見守る中、ついに決戦の火蓋が切って落とされた。僕もキラちゃんも、瞬きを忘れている。  西郷三四郎は、肚を決めていた。勝負は、一瞬。  身長170cm、体重80kg。体格でも体力でも相手に劣る自分が勝つには、あれしかない。  自分の勝利を微塵も疑わない身長180cm、体重150kgの相手の主将は、無表情に右手を伸ばし、三四郎の襟を掴もうとした。  次の瞬間、相手の主将が宙を舞い、畳にドサッと落ちた。 「一本。」  審判全員が、高々に右手を上げる。 「空気投げか。」「嘘、マジ。」  僕とキラちゃんは、思わず顔を見合わせた。  三船久蔵、講道館柔道十段。  講道館柔道創始者の嘉納治五郎と『理論の嘉納、実践の三船』と並び称され、「名人」、「柔道の神様」とまで言われた天才柔道家が編み出した必殺技。  この技は、相手に足、腰、背中をふれず、体捌きによって見事に投げ倒す技だ。  正式名称は『隅落すみおとし』だが、僕は、これほどの優れた技を実際に見ることができるとは、思いもしなかった。  近藤先生と柔道部員は肩を抱き合い、涙を流して喜んでいる。  僕とキラちゃんも、もらい泣きしそうになった。  三四郎も湧き出る涙を必死にこらえ、開始線に戻ろうとしたその時、 悪夢のような惨劇の幕開けとなった。
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