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午後十一時を過ぎ、睡魔が徐々に頭をもたげ始めていた。そろそろお勘定にしようと信哉が財布を取り出した時、目の前に白いお猪口が差し出された。
「何これ?」
「何って? あんたが頼んだんでしょ? 『猪口がほしい』って」
「『チョコレート』の『チョコ』だよ。話の流れから分かるだろ」
二月十三日、今日も信哉は行きつけの居酒屋で女将を相手に管を巻く。話題はもちろん翌日に控えたバレンタインデーについてだった。信哉の口は開くたびにお酒を飲むか「チョコが欲しい」とつぶやくばかりで、今日一日で何度そのセリフが発せられたか定かではない。
「まあいいじゃない? バレンタインチョコだって『私に酔いなさい』って意味なんだから、お酒と大して変わんないでしょ」
「そんなお嬢様気質な女、日本にはそういねーよ」
「つべこべ言わない。ほら、お酌してあげるから飲みなさいよ」
信哉の腕に注がれたお酒分の重みが加わっていく。なみなみと注がれた日本酒。すでにビール数本で酔いが回っているというのにこれを飲んだらどうなるか、信哉は軽く吐き気を覚えた。しかもこの寒い日に冷酒である。
「俺、明日も仕事あるんだけどな……」
「返品受け付けてないからね。もちろんお代もいただくわよ」
「お代も? 勘弁してくれよ。俺が安月給でいつもヒーヒー言ってんの知ってるだろ?」
「こっちだって赤字続きよ。ちょっとくらい協力してよ、幼馴染のよしみでさ」
そう言って女将はカウンターの奥へ引っ込んだ。そろばんの音が狭い店内に響き渡る。何を言っても無駄であると悟った信哉は観念して日本酒を流し込んだ。
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