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その日、桔平は一人でカウンターに立っていた。
マスターが仕入れで足りないものがあったので、いい機会だから留守番を一人でやってみて、と買い出しに出かけてしまったのだ。
開店したばかりの早い時間で、お客さんは誰もいなかった。
もちろん、遊佐もまだ来ていない。
だから、桔平は、マスターが置いて行ってくれたカクテルのレシピがびっしり書かれた手書きのノートに目を通していた。
後で許可を貰って書き写させて貰おう、と思いながら、その字を追うことに熱中していたので、チリン、とドアの開閉を知らせるベルの音は、マスターだと思って顔も上げずに「おかえりなさい」と声をかけてしまった。
「あれ?ここ、メイドバーとかじゃないよな?」
つか、男だから執事バーか?
笑いを含んだ初めて聞く声にそう言われて、ハッと顔を上げる。
「あっ、えっ、も、申し訳ありません!」
入ってきたのがマスターではなくお客さんだったことに狼狽えて、桔平は慌てて頭を深く下げたが。
慌て過ぎて、一昔前のコントのようにカウンターに額をゴツンと派手にぶつけてしまった。
そのお客さんが、ブハッと派手に吹き出した。
「凄いイイ感じのお店だと思ったのに、バーテンダーが天然とか面白すぎるんだけど」
桔平は、額を強くぶつけすぎて、痛みですぐに言葉が出てこない。
「大丈夫?俺のせいか?…でも、ちゃんと営業中だよな?」
俺、入ってきたの悪くないよな?
「あの、大丈夫です…すみません、いらっしゃいませ」
ここは、メイドバーでも執事バーでも、コントバーでもない、ちゃんとした普通のバーです。
なんとか口が利けるようになった桔平が、せっかくのお客様の誤解をとにかく解かないと、と急いで言葉を紡ぐと。
カウンター席の真ん中に座ったその男は、またクックッと肩を震わせて笑った。
「コントバーって……面白いな、バーテンダーさん」
凄い若く見えるけど、この店のマスターなの?
目尻に涙を浮かべるほど笑いながらそう聞かれ、桔平は慌てて首を横に振った。
「いえ、あの、俺はバイトです。マスターは俺なんかとは全然違って凄く素敵な人ですので、安心して下さい」
「だから、安心して下さいって……」
また笑いのツボにはまってしまったらしく、一頻り爆笑した後で、そのお客さんは桔平を悪戯っぽく見つめながら言う。
「俺は君のこと、凄く素敵だと思うけどな?」
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