第3章 誰かのために生きるということ

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 これ以上動くべからず。  そんな考えが頭の中に浮かぶ。地理を全く知らない俺が、勝手に動き回ることで逆に発見されない懸念を思い出した。  尊美さんのことを信じよう。そう思った。  少しだけ高い場所に樹の根が太い枝のようにしっかりと大地と結びついている場所を見つけ、俺はその逞しい両脚の中に座った。太い幹に背を預けると、なんだか小さい頃、親父のあぐらの中でくつろいだことを思い出す。  あの頃の自分からは想像もできない今の俺は、北海道南部ではなく関東屈指の観光地である箱根山で遭難している。  なんだか急に笑いが込み上げてきた。 「……なんとかなるさ」  鳥のさえずり、午後の風が流れる度に生い茂る森が揺れるざわめき、湿度の高い土と腐葉土の香り。このままここで朽ち果てたとしたら、俺は白骨の死体になって誰かに見つけて貰うことを待ち続ける。  左手の痛みはさっきよりもずっとマシになっている。出血も止まってきたようだ。傷さえくっつけば問題ない。  安心したら、急に睡魔がやってくる。さっきまであんなに緊張していたのが嘘みたいに落ち着き過ぎて、俺はウトウトしはじめた。まだ安心なんかしていられない状況だっていうのに。 『……そういうところだよ。私がいないと、ダメなんだから!』  恵鈴の声が聞こえた気がした。    ◇  あれからしばらくの間、私は一心不乱で絵を描いた。私がこれまで観た風景がイメージの世界で彩を変える。見たものすべてを正確に書き写すだけじゃなく、心に浮かぶものを真っ白い画面に焼き付けたくて―――。  私を通して現れる絵。描いている自分でも不思議な気持ちになる。
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