第3章 誰かのために生きるということ

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 あれから燿馬のことさえも忘れたように、私はひたすら絵を描いている。目を閉じると視えてくる世界がまるで私に描いてくれと、訴えているようで。  これは誰のための絵だろうか?  これは本当に私の絵だろうか?  見た事がない風景画。樹々のトンネルのその先に、岩場だらけの小川らしき水の気配が漂う。暗がりに浮かぶ大樹は、原始の森を彷彿とさせる。  ある日。半月ばかり経つ頃、真央さんが血相を変えてアトリエに飛び込んで来た。 「恵鈴ちゃん! 燿馬くんが大変なの!」  ―――え?  真央さんのひとことは、雷に打たれたような衝撃を与えていた。  手に持っていた紙パレットや布、絵筆三本がスローモーションで床に落ちた。  真央さんの姿が、顔が、ふたつ、みっつに横ブレしたかと思うと、原色の眩しさに目がくらんで立っていられなくなる。 「恵鈴ちゃん? えりんちゃん? ――――――」  真央さんの声が遠ざかる。光もあらゆる感覚も同時に、私の真上に飛び去っていく。  そう。この感じは、まるで落ちていくような感覚に似ている―――。  小さく蹲って誰とも口を利こうともしない少年の、丸い頭部が双丘に埋もれながら震えて泣いていた。  抱きしめたくても、手を伸ばしても、視えない壁に阻まれる。私は、その壁に体当たりをしながら、両手で叩きつけた。跳ね返る拳が顔にぶつかり、ジンジンと頬骨が痛んでいて、これは夢なんかじゃないとわかる。  小さい頃、私にだけわかった燿馬の居場所。  道に迷った彼を真っ先に見つけることができるのは、私だけ。あのママでさえも、できなかったことが確かにあったんだ。  壁越しの燿馬はまだ私に気付かない。ここから名前を叫んで、叫んで、声が潰れそうになるぐらい、怒鳴っても、泣き喚いても、届かない。もどかしくて、苦しくて、悔しくて、涙が溢れてくる―――。
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