1027人が本棚に入れています
本棚に追加
だけど、声が出ない。
すぅっと空気が抜けていくだけで、声にならない。何度試みても同じ。声は出ない。
俺は木の根を乗り越えながら沢へと降りていく。枝や幹に掴まって、グラグラとゆれる目の前の風景に負けないように、歯を食いしばる。
声が近い。
尊美さんの声だ。間違いない。
一歩、一歩、前に出る。どんどん体が重くなる。
空がまわりはじめ、森の木々も、なにもかもが激しく渦巻いている。
力が入らなくて、たぶん転んでしまった。
そしてまた、昨日の右手の傷が痛み出す。
「燿馬くん!!」
視界のはじっこに見覚えのある顔。だけどすぐ目の前は真暗になった。
貧血だろうか。音も、感覚もあっという間に俺を置き去りにした。
♢
それから途切れ途切れに、霞む視界の中で何人もの人々の顔が見えた。でも、誰一人俺の知らない顔ばかりが並んでいて、自分がいまどこでなにをしているのかも、俺はどこから来てどこへ向かって行こうとしていたのかも、思い出せない。
赤い血と共に何か大事なものが抜けて行く。そんな奇妙でうすら寒い感覚に包み込まれて、ちっぽけな虫にでもなってしまったようだと、思った。
冷たい白い布が敷かれた固いベッドで、指先一本も動かせなくなって、自分の意思では目も開けられず、まるで死体にでもなった気分でいると、滑らかな引き戸が動く音が聞こえた。何人かいる。
「………!!」
誰かが喋っている。でも、水の中に潜っているような遠い音過ぎて、聞こえない。甲高い声が途切れとぎれにやってくるから、たぶん女……。
最初のコメントを投稿しよう!