第3章 誰かのために生きるということ

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 恵鈴との間で、子供の話をしたのはあの時が最後だ。信州の不思議で奇妙な、それでいてとんでもなく残酷な事件。  ふと、爺ちゃんの顔が浮かんだ。  黒桜(くろう)爺ちゃんは、双子の姉弟という両親から生まれた禁忌の子供だった。それでも、野々花婆ちゃんは爺ちゃんを選んだ。爺ちゃんを生かし、愛し、そして美鈴ちゃんが生まれ、おふくろが生まれた。  生贄として死ぬ運命を変えた二人の駆け落ち先が、俺の故郷の北海道だ。まだ開拓者たちがしのぎを削って田畑を耕し、根を下ろしたと聞いている。歴史に名を遺すほどのことではないが、現代のように大きな農耕器具や機械がない時代に、広大な土地を自分の手と足だけで切り開いた。  壮大な事業を成し遂げたんだ。それに、剣も達人並みの腕前だったと聞いている。  爺ちゃんは俺の誇りだ。  爺ちゃんの出生の秘密が、俺達双子に勇気を与えてくれたんだ。  それなのに。俺達は普段の生活に戻ると、同じこの世で起きたとは思えない不思議な体験を忘れて、目の前の課題に夢中になり、会話も減ってしまった気がする。必死に単位を取り、卒論を書き、就職を決めて、それからもずっと忙しく過ごしていただけに過ぎない。  充実した時間だったとは思う。でも、恵鈴が絵を描けなくなって、あいつが自分で一般事務の就職をさっさと決めて、へっちゃらなフリをしたとき。俺は特に疑問も持たずに、恵鈴の選択を受け入れてしまった。  せめて、一言でも良いからちゃんと確認すれば、あいつの目が見えなくなるところまで追い込まれることにはならなかったかもしれない。  あいつを孤立させ、失明させたのは、俺だ。  俺は両目を閉じて、いつの間にか下唇から血が出るほど噛みしめてしまっていた。 「おいおい、殻に閉じこもるなよ!」  すぐ傍から、大原さんの声がしてハッと目を開ける。
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