由香子

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 由香子はくちびるを噛んだ。喪服の袖を握りしめると庭の飛び石に沿って眼玉を動かして屋敷に隣接するプレハブ小屋に顔をやった。  忌々しい亡男と禍々(まがまが)しいものの記憶がよみがえる。 まずは作業場で血だまりのなか、果てている亡主人の姿。――作業机につっぷして、腹を真っ赤に染めて死んでいる亡主人の姿――さらには亡主人の背後に立つものの影の姿。 亡主人の背後に立つものの影が縦に横にひろがって由香子の回想を占領していく。 とくに見る者すべてに安堵をもたらすような顔面が肥大した。 記憶の上澄みを上塗って、由香子の心にまで干渉してくるかのように巨大な姿をあらわしてくる。 決して記憶から消去できない事象は、亡主人の死に(てい)よりも、むしろこちらの影のほうだった。 亡主人の(むくろ)の背後に立つ、禍々しいものの陰影が……工房の中に―― ――まだ、それはいる。   神々しいまでの姿をして、慈愛の眼差しを注ぎ、仏のふりをしている邪鬼の化身。 ――だが、わたしはそんなものに心を奪われたりしない。 「……自業自得というものね。ミイラとりがミイラになったまでよ」  由香子はそう呟きながら、侮蔑の(まなこ)でいた。  再び天空を見上げると灰色の空にひと筋の煙が立ち昇っているのに気がついた。  (ふもと)にある民芸茶屋からだろう。ほかに遮るもののない山の空気は、瞬く間にその煙の匂いを運んできた。香ばしい匂いだった。     
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