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雲ひとつなく晴れ上がった空を背景に、桜が時折花びらを散らせてくる。
明治神宮外苑の東側を通る外苑東通りの歩道には、薄紅の花弁が間を置くように点在していた。桜とプラタナスが混在する並木道特有の景色だ。
積もるほど大量ではないが、物さびしいと感じるほど少ないわけでもない。つかず離れずの距離感で花弁たちは、コンクリートの暗色を背景に地上の星を思わせて白く輝いていた。
「私、青迫くんには駒の素質があると思う」
ふいに左隣を歩くゆめが言った。
「へ? なんで?」
「うまく説明できないけど、なんとなくそんな気がしたの。さっき支えてもらった時に」
「支えた……? あぁ、春瀬が転びそうになった時の話?」
「うん」
「そのことと人間将棋に、一体なんの関係が?」
「人間将棋、人間チェスっていうのは、実際の将棋やチェスと同じで、キングをチェックメイトから守りつつ、敵のキングをチェックメイトする競技なの」
硬い口調でそう言うと、ゆめはふいに足を止める。
「そういうルールのチームeスポーツにおいて一番大切なものは何か、青迫くんはわかる?」
チェスをモチーフにしたチーム戦eスポーツにおいて、一番大事なもの……
「知識、戦術……それから判断力とか?」
「それらすべてがとても大事な要素。でも、それら以上に重要とされるものが人間将棋にはあるの。それは……」
ゆめは言葉を切り、両の手を肩の高さで開いてみせた。
「人を支える力」
「人を支える力……」
美しくも儚げな十指に見入りながら、駈はこくりと唾をのむ。
「そんなのが、俺にあったの」
「断言はできない。ふと感じたっていうだけで……」
「そっか」
ポツリと呟く。
「じゃあ、俺は駒になるわ」
「ず、ずいぶん簡単に……」
「いや」
ゆめを遮り、駈は空の彼方へ視線を投げる。
「じつはこれは昨日今日決めたっていうような話じゃなく、春瀬と出会う以前から考えていたことではあるんだ。この世界に踏み込むとすれば、俺が選ぶべき道は駒だろうって」
帰路へ向きなおり、止めていた歩みを再開する。
「それは、どうして?」
問われた瞬間、駈は目を瞠った。強い風が吹きつけてきたかと思えば、水気を失った落葉が頬を掠めて去っていく。そんな幻影がふいに脳裏を過ったからだ。
幻の風が去ったかと思えば、今度は頭の中で痩せた黒髪の女性が踊りはじめる。
風に舞う落葉を彷彿とさせる、軽快にして不規則な動き。
それは中国伝統武器術・酔剣の動きに他ならなかった。
二、三度瞬きをくりかえすことで、駈は瞳にこびりつく幻影を無理やり追いはらった。
「それは……」
顎を上げ、空に呟く。
「嵐龍の悪魔的な強さと優雅さに衝撃を受けたから」
「嵐龍……」
ゆめが鸚鵡返しに呟く。
「それって中国伝統武器術・酔剣の使い手にして今現在、世界から人類最強の戦士と位置づけられているあの人のこと?」
「そそ」
「おおお、青迫くん、わかってる」
ゆめはウインクしながら、親指を立てた拳を突きだしてくる。
「そっかー、青迫くんは嵐龍さんの魅力をわかってくれる人なんだ」
それまでツンとした表情ばかりを見せてきたゆめの面に、初めて弛緩した笑みがはりつく。
「君とはいい酒が飲めそうだ」
嬉々とした様子で、ゆめは駈の二の腕をばしばしと叩いてくる。すました優等生キャラかと思いきや、じつはオヤジキャラだったのか。
「ってことはなに、もしかして春瀬も……?」
「うん。嵐龍さんのファン」
「えー、まじかぁ」
なんっつー偶然。
「ちなみに春瀬は嵐龍のどこが好きなの?」
「私? 私は……」
桜の薄紅、プラタナスの新緑、空の青。三色のパステルカラーが混在する春の景色に視線を漂わせながら、ゆめはぽつりと呟く。
「主人公みたいなところ……かな」
「主人公?」
駈は小首をかしげる。自分が抱いている嵐龍のイメージとかけ離れた形容だったからだ。
「あれは主人公っていうよりは、どっちかっていえばラスボスじゃね?」
「ラスボスって……」
ゆめの声がひきつる。
「どうして、そんな風に思うの?」
ふいに薄紅の小片が頬をかすめた。前方に浮かぶ雲に似た塊が降らせている花弁だ。
駈は桜の真下で足を止めた。
「俺は数日前、スコットランドのウィリアム・ウォレスの引退報道を見たんだけど」
「あー、やってたね」
「春瀬も見てたの?」
「うん」
「そか」
ウォレスの引退を心から嘆く人々と出会った昨日のあの場面のように、駈は満開を過ぎ枝が目立つようになった桜を真下から見あげる。
「その番組でさ、eスポーツ実況者の安木松太郎が番組の終わりに言ってたじゃん。VReスポーツ人間将棋には、これから嵐の時代がおとずれるって」
「あー、うん。言ってたね」
「あれを聞いてから、俺はどうしようもなく心がざわざわするようになったんだよね」
「あの言葉で……」
ゆめの小ぶりな唇がほんの少し、尖る。
「私は女だから、女性の比率が一割に満たないeスポーツの世界で最強の称号を得ている嵐龍さんに対して、同性としてただただ尊崇の念しか抱かないの。でも……」
言葉を切り、ゆめは薄紅の雨をたえまなく降らせつづける樹冠を見あげる。
「その一方で自分自身がプレーヤーでもあるから、圧倒的に強い王者的な存在を見るとワクワクが止まらなくなるっていう感覚は、理解できる」
「おおっ!」
いいね! と言わんばかりに駈は親指を立て、ウインクする。
「今が嵐の時代だから、青迫くんは自分もその嵐の中に入っていって、あわよくば嵐の元凶でありラスボス的存在である嵐龍さんを最初に討伐する勇者になりたいってこと?」
「それはちょっと流石に盛りすぎ。でも……」
駈はあらためて桜を見あげる。今年最後の薄紅の雨をあびながら、終わりゆく桜に心を添わせるようゆっくりと、口を開く。
「あの人のような嵐に、俺もなれるものならなりたいとは思う」
静寂が訪れる。
駈は桜を見あげ続けている。だからゆめが今どのような表情をしているのか、わからない。
でも。もしかしたら。
ゆめもまた駈の心境を察したうえで、一緒に桜を見あげてくれているのかもしれない。
心だけが空にふわふわ漂ったような静寂が続く。
「なら、急ごう」
静寂を破ったのは、笛の音を思わせる澄明な声音だった。駈はゆめに顔をむける。
思った通り、ゆめは桜を見あげていた。
棒のように身じろぎ一つせぬまま、春の化粧を脱ぎ散らし続ける花木を一心に見上げている。可憐な立ち姿だった。花そのものを演じているかのような品のある佇まいに、駈は思わず目を奪われてしまう。心を吸いこまれてしまう。
桜に見入る瞳がゆっくりと閉じ、開く。
その一回のまばたきを合図にゆめは緩慢な動作で駈に向きなおった。蕾に似た唇が開く。
「急いでプロにならなきゃ」
「だな」
ゆめの視線を受け止めたまま、駈は仄かに笑んでみせる。
「まずは、メンバー集めか」
「ああ、それなんだけど」
と言いながらゆめは肩に下げていた鞄のファスナーを開け、中から一枚の紙をとりだす。
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