色 『赤い電車』

2/11
7人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ
 初音町の交差点から鉄橋に停車した赤い電車に手を振りました。ドアに押し付けられた通勤客には、手を振り返す余裕もなければ、子供に偽りのやさしさを与える余裕もありません。ですが一人だけ、ガラスを拭くように手を振り返す男がいました。その男が母の愛人であると知ったのはずっと先のことでした。  私がこの街を出てから三十年が過ぎました。街並みも、ゆるく濁った川の流れも想い出したくありませんでした。しかし一通の便りによって、事務手続きを済ませるために戻って来たのです。祖母が亡くなり、その遺言で不動産を相続したという通知でした。身寄りの少ない祖母は、住まいを妹の親族に相続させ、初音町のこの狭い二階屋を私に残していたのでした。大人一人が上り下りするのがやっとの、急な階段の二階屋です。夕方になると、はけ口を求め路地を行き来する男達を、店の前で誘う女達で賑わっていました。そう、祖母も母も、そうやって生計を立てていたのです。  母は父を送り出すと、朝食の後片付けもそこそこに、発育不良でやっと歩けるようになった私の手を引いて、雨の日以外は必ずここにやって来るのでした。 「浩、残したらバイバイ連れて行ってあげないよ」 「うん、全部食べたよ」 「そう、じゃあバイバイ行こう。お母さん、浩をバイバイにつれて行って来ますから。偉いね浩、全部食べたの、さあバイバイ行きましょう」  電車やバスが通り過ぎるときに子供達が手を振る、所謂『バイバイ』に、私はそれほど興味がありませんでした。母は私が多くの子供等と同様『バイバイ』が好きであると、父や祖母に思い込ませていたのです。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!