色 『赤い電車』

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「いいねえ浩、バイバイ行くの?電車にバイバーイって、いいねえ」  定刻に放映される歯磨き粉のコマーシャルが出発の合図でした。母の手はいつも濡れていて冷たかった。洗い物の途中で慌しく手を拭くので白い手には水滴がいくつも残っていました。母の掌から冷たい水滴が私の掌に伝わり、そして再び母の手に戻り、中指のピンクの爪先からアスファルトに落ちる。 初音町の交差点で一晩中営業している薬局も、誰もが無口で、白い吐息だけが温泉場の蒸気みたいにあちこちで上がり、早足に駅に向かうこの時間帯だけはシャッターが下りています。赤い電車が鉄橋の駅に滑り込んできました。 満員の通勤客に背中を押されてドアにへばり付いた背広姿の男が、手を振り返してくれました。この男はいつも交差点から見える鉄橋の上のドアの前に乗っています。家からこの交差点に来る途中で、私のゆるいズックが脱げたり、咳き込んで立ち止まり、母に背中を摩ってもらったり、ほんの数秒のトラブルが生じただけでもその電車は黄金町駅を離れてしまいます。そんなとき母は、私を抱きかかえ、小走りするのでした。 ゆっくりと動き出す電車の、いつものドアの前でその男は、私が手を振る前に両手を振っていました。母が私に押し付けたバイバイ遊びは、実は母の逢引だったのでした。母は自分で振るのが恥ずかしく、私の手を握って振ることで、その男を見送っていたのでした。
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