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「20万だ」
男は、アルコール8%と書かれている炭酸飲料500ml缶の中身を1/3ほど残したまま、勢いよく壁に投げつけました。中身が宙を舞い、灰色の絨毯に落ちて濁った色の染みとなります。叩き付けられた壁には同じようなへこみが18個から19個に増え、3個目の缶が床に転がっていました。
「20万ぶち込んで、出ねえとかありえねえだろうがようっ」
誰も観ていないテレビは、可愛いパンダの今日の様子です、とのアナウンス。
視聴者に向けスタジオの芸能人たちが心の籠っていない笑い声をあげ、それが狭い室内に波紋のように広がりました。
毎日、無言で夕食の準備をする女性。この方が僕らのご主人様です。
18時にはお祈りを済ませ、食事を作り男に振る舞います。
そして綺麗に化粧をすませ重苦しく玄関のドアを開け夜の街へと向かいます。
まだ籍も入れていない、この男を養うために。
その日のきっかけは、皿と皿の接触。
かちゃり、という僅かな音。
その音を皮切りに、男の瞳がご主人様を捕らえ、その距離を詰めると張り裂けんばかりの大声を上げました。
「まともにぃ、メシもぉ、出せねえのかよおっ」
"はじまり"の合図です。
いつものように男はまず、ご主人様の髪を掴み、振り回します。
何度も何度も。まともな人間が使う言葉とは思えない罵声を浴びせながら。
そして、トドメのように僕らへと右拳をめり込ませました。
「これ、ソーラー・プレキサス・ブロゥ」
男は楽しそうに唇の端を引き釣り上げ、そう言い放ちました。
「ミゾオチにくらわすパンチは、一撃で足腰が立たなくなるんだってよぉ」
ボクシング漫画で得た知識をひけらかす男。
その『必殺技』は僕らの守りを簡単に貫き、ご主人様に激痛と呼吸困難をもたらせました。
たまらず、ご主人様は体をくの字に折ってへたり込み、目尻には涙を浮かばせます。
僕らは不甲斐ない気持ちで心が痛みました。
……エ・エレイソン……キリエ・エレイソン……キリエ……
ご主人様は蚊の鳴くような小さな声で呻きながら呟きます。それが再び男の逆鱗に触れました。
「その下らねえ呪文、いいかげんやめろっ、キモいんだよっ!」
次の攻撃が始まる。そう察したご主人様は
「すみません!私の不徳の致すところです。申し訳ありません」
両手を組み、神に祈りを捧げるように懇願します。震えながら赦しを。
「その敬語もキモいって言ってんだろうが、よっ!マジで何度も言わせんじゃねえ、よっ!」
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