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ああ、私はこの声に惹かれてしまったのだ、と。
ほんの少しだけ間を置きご主人様は、小さくもしっかりとした声で言いました。
「私、習い事がしたいわ」
「なんだ、そんなことか。ああ、なんでも好きにすればいい」
男は笑顔で頷き、ご主人様も微笑みを返しました。
季節がひとつだけ流れました。
ご主人様は人として、女として、そして親として少しだけ強くなったようでした。
今思えば、代わりに神様にお祈りする時間が少しずつ減っていました。
そして、男は博打のコツをつかんで金を儲け、ご主人様と(もちろん僕らににも)暴力を振るうことが少なくなっていきました。
季節がもう半分過ぎたころでした。
ご主人様が帰宅すると、男は青ざめた顔で振り返りました。
そして慌てふためきながら身振り手振りし、たどたどしく解りづらくも、必死に説明をしだします。
どうやら「裏の博打に手を染めてしまい、大きな借金を作った」という内容のようでした。
その話の中には「やべえ」と「ガチで」が6回ずつ出てきました。
男は、涙ながらに懇願しました。
お前だけが頼りなんだ、助けてくれ、ああ、神様、助けてくれ、と何度も。
これらの言葉の群の中の、助けてくれ、は今の仕事よりさらに過酷な労働環境に就いて、もっと俺に金を貢いでくれ、という意味と取れました。
しかし、ご主人様の表情は、動作は、心は何一つ動きませんでした。
その態度を見て、男は豹変します。
今までの青白い顔から打って変わって、真っ赤な顔となり怒り狂いだしました。
目には狂気が宿り、まるで煮こぼれする鍋のように口の端から泡まで吹きながら叫びます。
「オレを、馬鹿に、してるのかぁっ」
よほど興奮していたのか、男はいつものようにご主人様の髪を掴まず、いきなり右拳が僕らを目がけて飛んできました。
「ぽきゃ」。
あるいは「べきぃ」だったでしょうか。
精密な歯車たちが噛み合うような、清々しいことが起こります。
男の手首はありえない方向に曲がっていました。うずくまり涎を垂らしながら男は呻きます。右手首を左手で抑えながら男は、ヒィヒィと喘き続けました。それは、とてもとても醜い姿でした。
僕らは感動すら覚えます。
この瞬間のために、備えを積み重ね、最高の仕事をやり遂げたことを。
僕らの組織は、破壊と再生を幾度も、幾度も、幾度も、幾度も、繰り返しその頑強さを身につけていました。
"はじまり"の合図です。
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