〈二幕 美雪〉 第5話 再演

5/27
前へ
/400ページ
次へ
 去年のちょうど今頃、N市に全国模試を受けに行った帰り、私は地元の駅に着いてから、駐輪所に停めておいた自転車の鍵を試験会場に忘れてきたことに気付いた。家まで歩けば四十分以上かかる。私は携帯電話を持っていない。迎えを頼もうと、比喩でもなんでもなく蜘蛛の巣が張っていた公衆電話から自宅や同じ敷地内の祖父母が住む母屋に電話をかけたが、外出しているのか誰も出ない。両親の携帯番号を控えた手帳は通学鞄に入れており、今日は別のバッグで来たので、連絡しようがない。空はもったりと黒く重たげ、今にも泣き出しそうで、北風はますます勢いを強めて。 「どうしたの、美雪ちゃん?」  ワンマン電車が行ってしまい、無人駅となった改札のベンチで途方に暮れていた私に、ごく自然な、古くからの知り合いのような声が掛けられた。  さびれた駅とその背景に広がる冬の田畑とは不似合いなトレンチコートをひるがえす女性。  知ってはいた。あの高台の白い邸の住人だと。ごく近所ではあるけれど、どこか近寄りがたいあの邸。彼女自身は回覧板を持ってきたことがあったかもしれない。でも、そういったやりとりは母や祖父母がしていたから、自分とは関係がなかった。世間話どころか、挨拶だってろくに交わしたことがない。存在しているというだけで、なんの接点も無かった人。そういう意味では、テレビの向こうの芸能人と同じだった。  その美しい人が、こちらの肩に手を置き、心配そうに顔を覗き込み、挙句「パーキングに車を停めてあるから、送ってあげるわ」と申し出るなんて(路駐のスペースが十二分にあるこの市で、わざわざパーキングを使用していることも驚きだった)。  突然のことに私は遠慮したが、香世子さんは、いいのよ、と微笑んだ。私とあなたのお母さんは親友だったんだから、と。     
/400ページ

最初のコメントを投稿しよう!

50人が本棚に入れています
本棚に追加