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49 夏の終わり
「爺。結局、車はどうなったの?」
「あれには骨が折れましたわい……」
手稲山のロッジの午後、義堂は山岳パトロールの車が大通公園で放置されていた事件の話をした。仕事の帰りに義堂に会いに来た小花は、客が来ないようにソフトクリーム販売は休憩中の看板を出して話を聞いた。
「刑事の話では、外国人があの車を盗んだようですが、あんまり目立つので放置したのではないか、と」
「黄色のパトロールカーですものね、盗む方がおかしいわ」
「爺もそう思います。今は修理に出しております」
「壊されてしまったの? 悔しいわね」
「え、ええ」
よかった! と小花はのんびりと足を伸ばした。そんな小花に義堂は紅茶をカチャカチャと震わせて出した、
「ど、どうぞ」
「大丈夫? ところで、爺、電話した時、どこにいたの?」
「それが? 大変なことが起きております」
小花に紅茶を出した義堂は、目の前に座り落ち着こうと救心を飲んだ。水を飲み深呼吸をして語り出した。
「実は、爺は慎也坊ちゃまに呼び出しを喰らいまして、坊ちゃまのマンションにいたのでございます」
「え? お兄様の連絡は無視していたのに」
「うっかりです……本当にうっかり出てしまったのです」
小花は紅茶に手をつけず話を聞いた。義堂は慎也が小花を探していると告げた。
「お兄様はどこまでご存じなの?」
「真子様が亡くなっていることと、真子様が生みの母親ということも知っておいででした」
「……そこまで知っているの、そう……」
……お母様は秘密にして欲しいって言っていたのに。
亡き母は慎也の心を思い、その事実を隠して欲しいと鈴子には話していた。だが知られた以上、それはどうしようもないと小花は思った。
小花は顎にを置き、紅茶をじっと見つめた。
「それで? 私のことはどこまでご存じなのかしら?」
「名前を変えているようで、見つからない、と言っていましたね」
「結構知っているのね……困ったわ」
小花はため息でソファに背もたれた。義堂も唇をかむ。
「そうですね……これからどうしましょうか」
「……最初の計画と違っていたものね」
……夏山ビルの耐震工事の時だけ、お掃除する予定だったのですもの。
夏山鈴子は、後妻の連れ子という立場であったが、本当は慎也とは実の兄妹である。だが父の葬儀の後、後妻の真子を悪女を思う慎也に鈴子も追い出されてしまった。だが母はそれを恨むことなく東京で働き鈴子を育ててくれた。
そんな母は亡くなり鈴子は横浜の学校を中退し、自立しようと母の勤務先の旅館で仲居をしていたが、財産目当ての叔父の夏山正也が接触してきた。これを恐れた鈴子は、当時の旅館の女将の提案で、母方の祖母の苗字の『小花』を名乗っているのだった。
「そうですな。爺も派遣なのにこんなに延長になるとは思いませんでしたわい」
「私だってそうよ。それにお兄様は全然気が付かないんですもの」
困った二人はため息でソファにどっと崩れた。
「寒くないですか」
「きゃあ! 武さん、いたの?」
「わしもビックリした……武君は足音がしないのでわからんかった」
「先ほど来ました。お嬢様、紅茶が冷めます。あと膝掛けをどうぞ」
武は小花に膝掛けをかけ、暖炉に火を入れた。義堂は心臓がやばいので胸を抑えていた。武は戸締りを確認しながら話す。
「とにかく。今の話ですと、お嬢様の正体が知れるのも時間の問題だと自分は思います」
武は慎也の周辺を調べていた。慎也が弁護士を雇い過去を調べていることは把握していた。
「そうですな……お嬢様。ここはカミングアウトをするのはどうですかな」
「……そのことだけど」
紅茶を口にした鈴子は膝掛けを掛けると天井を見上げた。
「告白するのは簡単よ……でも、私、今の関係が気楽で気に入っているの」
「まあ、それはそうかもしれませんが」
「確かに。鈴子様が夏山のお嬢様だと知れると、夏山の関係者は態度を急変するかもしれませんね」
武は暖炉の小さな炎を見つめながら語る。
「それに……慎也坊ちゃまは、なぜ今になって鈴子様を探しているのでしょうか」
「それはあれじゃ、愛の力」
「本当にそうでしょうか?」
義堂の言葉を武は遮る。武は火かき棒で突きながら怒りの色を浮かべている。
「自分にはそうは思えません。自分から追い出しておいて探すなんて、お嬢様の気持ちを無視しています」
「武さん」
「すみません。言いすぎました」
「いいの……心配してくれているのね」
小花はソファの上で膝を抱えてくるまった。
「ありがとう……心配してくれて……そうね、実はその前に私、もっと大変なことが起きているの」
「え」
「ま、まさか」
姫野と結婚するのかと思い武も義堂も驚いた。二人の真顔に小花は、一瞬、う! と引いた。
「実は……勉強の方が」
「は?」
「そっちですか……よかったわい」
「ちっとも良くないわ」
小花は膝に顔を埋めた。そして今のままでは進級できないかもしれないと白状した。武のそばに座り詳しく聞いた。
「お嬢様。それは試験を合格すれば良い話ですか」
「いいえ……先生の話では、もっと学校に早く来て勉強すれば許してくれるって言っていたの」
小花の話を聞いた武と義堂は、試験でどうにかできるレベルではないのだと知った。小花はその事実に気がついていない様子である。
「私もね。そうしようと思っているのだけれど、忙しくて行けない日が多いし、学校に行っても眠くて頭に入らないの」
「そうだと思います。お嬢様は忙し過ぎです」
「武くん……これはどうしたもんかね」
「そうですね」
武も義堂も考え込む。そんな時、小花が話し出した。
「私、今週ちょうどワールドに行って報告する日なの。社長の伊達さんに会うので相談しようと思っていたのだけど、私、しばらくお仕事を休もうと思うの」
小花の英断に武も義堂もため息をついた。
「そうですね。それが一番ですね。お嬢様はまず学業に専念すべきです」
「……夏山も耐震工事のためにお嬢様を呼んだはずでしたな。その工事も終わったのですか」
「ううん。札幌駅の開発工事の云々で後回しにされて、これからなの
鈴子は、この夏山ビルの工事で亡き父が使っていた部屋がこれから解体されると語った。
「私、壊される前にあの部屋に入れれば、もういそれでもいいの」
「では、それを見届けてから長期休暇に入る、というわけですね」
「ええ、それだけよ」
武はこの案に納得するように頷いた。義堂もそれしかないとふうと息を吐く。
「わかりました。お嬢様。生活費のことは気に召さることありません。この義堂、五百円貯金をしておりますので、存分にお使いください」
「ありがとう……でも、そう。お兄様が私を探していたのね……」
暖炉の火が温かくなってきた。武は二人にカレーを食べさせ、自宅まで送ると入ってくれた。食後、義堂が風呂を沸かしに行った時、武は鈴子に尋ねた。
「お嬢様。姫野にはどう説明されるのですか」
「そのことなのよね……」
……今までなぜ黙っていた、と怒るでしょうね。
最近、姫野は多忙であり掃除の時に話をするだけであった。しかし、高校を卒業したら自分に告白をしてくれると言ってくれていた。
……これは相談しないといけないわ。
鈴子も姫野に真実を告げたかったが、そのせいで彼が自分を見る目が変わるのが怖かった。だが付き合いを通して姫野がそんな人ではないということを知ってた。
……というよりも、成績のことを伝える方が恐ろしい……
真面目で頭の良い姫野は、やればできる人だ。小花はそこが好きであるが、自分の不出来な点を姫野は厳しく指摘してくる。
それは小花にしっかりしてほしいという彼の愛情だとは十分わかっているが、人には頑張ってもできないことがあり、小花も未熟な点が大きくある。
……今回の成績の話をしたら、怒るかもしれないわ……
姫野に嫌われたくない気持ちから、小花は成績不振のことを姫野に告白することを恐れていた。頭を抱える彼女を見た武はこの気持ちを悟った。
「お嬢様。自分はそばで見ているだけですが……姫野には『成績不振』だ、というだけではなく、『そのために仕事をセーブして勉強に専念したい』と申し出るのは良いかと思います」
「そう?」
「はい。だって、お二人とも卒業をしたいのですよね」
……そうだったわ。
武は食器を片付ける。
「迷ったら初心に帰りましょう。そもそもお嬢様は高校を卒業するのが目標なのですよね? その後、結婚とか転職とかあるかもしれませんが、まずは卒業に向かって突き進むのが良いと思います」
「そうね。その通り!……武さん、ありがとう」
元気がなかった小花のにっこりした顔に武も、珍しく笑みを見せた。
……これでいい。私は影なのだから。
小花に尽くす武は彼女を全力で支えると改めて誓った。
「では、帰りましょうか。そして、今週はワールドの伊達さんに相談ですね」
「ええ。では、義堂、帰るわね」
「おお、どうぞ気をつけてくだされ」
武のバイクに乗った小花は、中島公園の家に帰ってきた。すると家の前に彼の車があった。
……まずい。武さんとの仲を誤解されてしまうわ。
これを察知した武はバイクを停めた。
「お嬢様。ここは私が話をします」
頼もしい武の背後で小花はヘルメットを外した。姫野はムッとした顔で車から降りてきた。
「どうもこんばんわ。失礼ですか、君は?」
富良野プリンスでちらっとした会っていない姫野は武の顔を知らなかった。
それを知っていた武は暗闇で顔を隠し名刺を出した。
「恐れ入ります。自分は雫下牛乳のものです。本日は派遣会社ワールドさんのお仕事で小花さんにお世話になりました」
「そ、そうですか」
「自分は配達でこの辺りに来ていますので、ついでに送った次第です。では、小花さん、本日はありがとうございました」
「は、はい。お世話になりました」
武の名演技で別れた小花は、姫野を自宅にあげた。彼は小花に甘えるようにバッグハグをした。
「はあ……今日は予定がなくなったので、久しぶりに顔を見たいと思って連絡もしたんだぞ」
「バイクに乗っていたので連絡に気が付かなかったわ。ごめんさい、ええと、何か作るわね」
「いい。お前。カレー食べたんだろう。匂いがしたから」
だが姫野は何も食べていない様子である。小花はすぐにできるといい、彼をソファに座らせうどんを作っていた。
「……なあ、最近、勉強の方はどうなんだ」
ギクっとした小花は、ネギを切りながら動揺した。
「そ、そのことなんだけど」
「試験もそうだが進級できそうか? 京極くんも厳しいと言っていたので気になっていたんだ」
疲れた顔の姫野は心配してくれていた。日頃、会社では詳しい話ができない小花は、我慢できずに武の助言通りに語った。
姫野はネギいっぱいのうどんを食べながら黙って聞いていた。
「そうか……やはり」
「なかなか言えなくてごめんなさい。でも、鈴子はサボっていたわけではないのよ」
「それは知っているよ。それで? 伊達さんに頼んで仕事を休もうってことか」
「うん、仕事を休んで、勉強に専念したいの」
食べ終わった姫野は、ごちそうさまと挨拶し、自分で台所にどんぶりを下げて戻り、鈴子の隣に座った。
「鈴子……俺は応援するよ」
「ほんとうに?」
「ああ」
姫野は鈴子を肩を寄せ手を握った。
「俺は基本、お前のことは全部、応援している。だから仕事を休んで勉強に専念するのも良いと思う……だが」
「だが?」
「その……毎日。会えなくなると思うと、な……正直」
そういうと姫野は小花の手に口付けをした。
「寂しい、なと思って……今だって少ししか会えないし」
「そう、ですね」
小花も姫野に肩に小首を乗せた。
……どうしよう、今の姫野さんにお兄様のことまで言えないわ。
愛する姫野は仕事で疲弊している。そんな彼はこれから職場で会えなくなるという可能性だけで、こんなに落ち込んでいた。そんな姫野に自分が『夏山の娘です』とは今の小花には言えなかった。
……今はこれ以上、姫野さんに心配かけられないわ。
「ん? どうした?」
「姫野さん……あのね」
小花は姫野に抱きついた。胸の中で想いをこぼした。
「鈴子はね……姫野さんが好きよ。だからまず、学校を卒業したいの」
「ああ」
姫野もそっと抱きしめ、小花の頭を撫でた。
「鈴子は不器用だから、一つ一つ問題をクリアしていきたい……まずは今週、伊達さんに行ってお休みをもらうわね」
「わかったよ。鈴子」
姫野は小花の顔をあげてそっと口付けをした。
「俺はお前を愛している。なんでも応援するよ」
姫野の優しい言葉に小花は涙が出てきた。
「うん……頑張る。そして、ずっと姫野さんといたいわ」
「俺もだよ、鈴子。大丈夫、卒業できるよ」
二人はソファに座り寄り添いながら窓の外を見ていた。秋の風の色は庭の木々を赤く染め始めていた。
小花の楽しかった夏のお掃除の仕事は、もうすぐ終わりを告げようとしていた。
完
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