2440人が本棚に入れています
本棚に追加
50 秋の札幌
「え? 休みが欲しい? どこに行くの?」
「どこにも行きません。勉強が間に合わないのです」
「……え?!……あ、そうか……そうだったわね」
翌日の派遣会社ワールドのビル。社長の伊達は、小花の言葉を聞き残念そうに同じ部屋の机にいた吉田を見た。吉田は夏山愛生堂の清掃員の吉田の息子で、小花の紹介で入社した男性である。
白いスーツで決めている伊達は、困り顔で吉田に尋ねた。
「吉田くん。小花さんの予定はどうなっているの」
「はい。まず夏山愛生堂とは延長契約になっています。現在、他の仕事は受けていませんが……あるとすれば、うちの山口さんや愛川さんのチームの応援くらいです」
パソコンの画面を見ながら吉田は伊達に報告した。話を聞いた伊達は小花を見つめた。
「そうか……私としてもあなたには勤めてほしいと思っていたけれど、あなたは学業と両立させたくてうちの会社に来たのよね」
「はい」
小花の親代わりで授業参観に行ったことがある伊達は、最近の小花が忙しすぎるとは思っていた。
……夏山さんが可愛がってくれるのはありがたいのだけれど。
小花という女性は、そこまで器用ではない。実習の時に小花に掃除を指導した伊達は、小花が休みたいという願いを叶えることにした。
「どのくらいの期間……いえ? それは決めなくていいわね。とにかく学校を無事に卒業できないと話にならないもの」
「話は早くて助かりますわ」
ほっとしている小花をみた伊達であるが、ため息をついた。
「そうか。では問題は夏山さんね」
「あの……それなんですけれど」
小花は伊達に語り出した。
「私はそもそも耐震工事の時に汚れるので夏山さんに行っていたんです。でも、実際は工事が中断してして、その工事は今月で終わるんです」
「そうか、だったら耐震工事が終わったら掃除は要らないのね、どう思う? 吉田くん」
母親が掃除をしているので言いにくいが、吉田は仕事として答えた。
「そうですね。確かに耐震工事は今月で終わります。これを理由に小花さんの派遣をお断りしましょうか」
吉田の提案は、もし夏山さんがどうしても清掃員が必要ということなら、他の清掃員を派遣しようということだった。
「それしかないわね……では、小花さん、それで良いかしら? 夏山さんには今月いっぱいであなたの派遣終了でお伝えするわね」
「はい」
……ちょっと寂しいけれど。
秋の帰り道。小花はナナカマドが赤く実る街路樹の下を歩いた。
……姫野さんには話してあるけれど、皆さんに会えなくなるのは寂しいわ。
札幌の街はすっかり秋の風が吹いていた。夏の間、暑さで地下歩道を歩いていた人たちも、今の季節は地上の道を歩いていた。コートを着ている人、薄着の外国人旅行客を尻目にした小花は、ふと、パフェの店に入った。
この日はワールドで報告の日なので、仕事はもうない。夏山愛生堂にも行かないつもりの小花は、注文したパフェを食べた。
……美味しい!? でも冷たいな。
スマホでメッセージを読みながら小花は食べた。明日、夏山愛生堂にいけば、『なぜ止めるんだ』と追求される予想がついていた彼女にとって、束の間の休息である。
……勉強か、頑張らないといけないし。
小花はどちらかというと掃除の仕事をしていた方が楽だったが、そうもいかない。亡き母や姫野にも卒業することは約束したし、自分もここまできたら卒業したかった。
……でも、それよりもお兄様よ。バレないうちに去らないと。
今回の休業は、それが一番大きな理由だった。
……お兄様に、会えなくなるか……
ちょっとうるっときた小花は、涙をハンカチで拭った。秋のパフェは涙の味がしていた。
◇◇◇
翌朝。小花はいつものように夏山愛生堂に出社した。今朝はすっきりした秋晴れである。小花は宿直室の男性社員達がまだ寝ているかもしれないので、静かに掃除を始めた。
「失礼します……」
掃除をするために中央第一営業のドアをそっと開けた小花は、誰もいないうちに掃除を始めようと思った。
「おはよう」
「きゃ! いたんですね」
ソファにはシャツ姿の姫野が寝ていた。
「どうしてここに? 夜勤じゃなかったですよね」
「ふわ!……頼まれて交代したんだ……夜勤の奴らのいびきがひどくて、ここで寝てたんだ」
そういうと姫野は身体を起こし、大きなあくびをした。いつもクールな姫野のあどけない表情に、小花はくすと笑った。
「今、何時だ」
「6時15分よ。まだ寝ていたらどうですか」
「鈴子、昨日はどうだった?」
姫野はまだソファでゴロゴロしている。小花はにこやかに彼の肩に手を置いた。
「メールしたでしょう? 伊達さんにOKをもらったわ」
「じゃあ、今月いっぱいか」
「うん。あと二週間くらいね、あ」
姫野は小花の手首を掴み、引き寄せて抱きしめた。
「姫野さん!」
「……初めての頃を思い出すな……お前は俺を嫌って、無愛想で」
「まあ? そんなことないわ」
小花は姫野に振り返る。
「姫野さんこそ、私に意地悪だったわ」
「そんなことないさ」
「ううん。意地悪だったわ。鈴子にあんなに意地悪だった人は姫野さんが初めてよ」
「そうか?」
「うん! だから、好きになったのよ……手加減しないで叱ってくれるから」
「鈴子」
姫野はそっとキスをした。秋の空気はひんやりと二人を包んでいた。姫野は小花を見つめた。
「いいかい、鈴子。これからお前が辞めると聞いて、ものすごい反対運動が起こる。だがそれに負けるなよ」
「はい」
姫野の膝の上に座る小花は、力強く頷く。姫野も相槌を打つ。
「俺も考えたんだが、休む理由は学業専念が理由だが、結婚するのかと聞いてくる奴が多いはずだ。それでも構わないのだが、話が大きくなるのが面倒なので今回は『個人情報』で押し通せ。いいな」
「はい! やります」
「よし。いい子だ」
姫野に頭を撫でられた小花は、嬉しそうに微笑む。
「さて、お掃除開始ね。秋だから埃っぽくて……見て、ぞうきんにこんなに汚れがついたわ」
「全部、石原部長のせいだ」
「何が俺のせいだって? ふわ……姫野は早いな」
「う!? 石原さん、臭いです! 昨夜もお酒ですか」
「鈴子、窓を開けろ」
口臭がひどい石原の登場に小花と姫野は窓を開けた。石原は平気そうに椅子に座った。
「どれ、コーヒーでも飲むか」
「やめてください。口臭が余計にひどくなります」
「そうですわ、あ、風間さんおはようございます」
「おはよう……寒っ! なして窓なんか開けているの」
震える風間に姫野は意味を話した。
「そうか……あ! 口にガムテームを貼ればいいじゃない?」
「それ、いいですね」
「風間も立派になったな」
「くそ! こうなったら、口臭攻撃だ! はあ〜〜〜」
秋の朝の中央第一営業所、東の日差しが優しく差していた。小花の楽しかった夏のお掃除の仕事は、終わりまでのカウントダウンを始めていた。
◇◇◇
義堂と会った日の夜。慎也のマンションに弁護士の御子柴がやってきていた。慎也はリビングに彼を通した。
「夏山さん、顔色が悪いのですが、御忙しいのではないですか」
「いえ。こちらの方が優先ですよ」
義堂に会い、真子の話を聞いた慎也はその場では笑っていたが、義堂が帰った後、悲しみに暮れていた。そんな慎也は御子柴に座るように進めながら語った。
「まあ、先日はショックが大きかったのですが、今は落ち着きました」
前回の調査報告は、真子が生みの母親だという報告だった。さらに真子が死んでいたという話は慎也には信じられなかったが、今日の義堂の話で真実だと確信を得た。
「そうですか」
「ご心配なく。そして、鈴子のことは分かりましたか?」
御子柴の調査はここにきて急にペースアップしている。慎也も心の傷が塞がっていないが、真実を知りたい気持ちでいっぱいで調査を進めていた。
「これが資料になりますが、難航しています」
「ええと、鈴子は真子さんの葬式を上げてから、旅館にいたんですよね」
御子柴の資料を慎也は手に取った。御子柴はため息をついた。
「はい。おっしゃる通りです。鈴子さんは真子さんの葬儀を一人で上げたそうです。そして真子さんが勤務していた熱海の旅館に挨拶に来てしばらくそこで勤務していたんです」
慎也も御子柴も旅館の女将に聞けば鈴子の行方はすぐにわかると思っていた。だが複雑な理由があると聞いた御子柴は旅館に行って実際に女将に話を聞いていた。
「鈴子さんは、仲居の仕事を気に入っていたようです。ですが、この人物がやってきて、これが宿泊記録です」
「やはり、正也おじさんか」
顔を歪めた慎也に御子柴もため息をついた。
「はい。夏山正也氏になります」
……ここでも叔父が足を引っ張っていたなんて。
俯く慎也はため息をついた。そもそも夏山愛生堂の社長は、慎也の父、俊也の死去後、俊也の弟である正也が社長をしていた。慎也はまだ若く、正也が仕事に精通していたからである。しかし、正也は横領をしており今は刑務所にいる。そんなことがあったため、慎也が社長に就任していた。
……俺も裏切られていたけれど、鈴子のところにも行っていたとは。
頭の中が真っ白になっていた慎也に弁護士は続ける。
「正也夫妻が真子さんに会いに行った目的は謎ですが、当時は株で失敗した時ですので、おそらく金の無心でしょうね。女将によればご夫妻は真子さんが死んだと聞いて驚いていたそうです」
「でも、真子さんは死んでいないから、鈴子が対応したんですね」
「いいえ、女将さんは最初、借金取りかと思ったそうで、鈴子さんに逢わせなかったそうです」
御子柴の話に慎也は驚き顔を見せた。
「そんな中、鈴子さんはしばらくここの旅館で働いていたのですが、正也氏の不穏な動きを感じた女将は公の機関に相談を勧めたそうです」
「不穏な動きとは?」
「……鈴子さんと勝手に養子縁組をしようとか、資産家との縁談などを持ちかけたそうです」
「そんな……」
母を亡くした10代の妹にそんなことをしていたとは知らなかった慎也は、胸が張り裂けそうになった。しかし、御子柴は大丈夫と言わんばかりに話を続けた。
「それは大丈夫でしたよ。危険を感じた女将さんと鈴子さんは最終的に彼らをストーカーとみなして、NPO法人のボランティア機関の尽力を受けて、名前も変えたそうです。要するに別人として暮らしているんですよ」
「別人? それで、名前を変えて叔父から逃げたんですね」
「はい」
……だから夏山の名前で探しても見つからないんだ。
御子柴は最初から鈴子は名前を変えている可能性を示していた。慎也はやっと理由がわかり腑に落ちた。
御子柴は安心したように慎也が出したコーヒーを飲んだ。慎也は少しホッとしていた。御子柴はその顔を見つめた。
「全く、こういっては何ですが十七歳だったお嬢さんにしては見事な機転です」
「フフフ」
「慎也さん?」
慎也が笑っているので御子柴は二度見した。
「すみません! 笑ってしまって……不謹慎ですよね。でも。父が亡くなって、母が亡くなって。お嬢様だった妹がこんなに逞しく生きているとは」
「逞しいというのは私も同様です。真子さんがホスピスに入院した際も大変気丈であったと職員が話していました……あの、ところで慎也さんは鈴子さんと話をされた事はあるのですか」
慎也はここで笑いを止めた。
「……無いです。父が結婚した時は、ここに一緒に暮らしていた事もありましたがずっと無視していました。鈴子は話しかけてくれましたが、葬式の時も話はしませんでした」
過去の自分を呪うように慎也は告げた。御子柴は資料に目をやった。
「そうでしたか……あの、慎也さん、これは資料ですが、鈴子さんは学校ではフランス語を専攻され、ピアノやバレエが得意とか。茶道を嗜まれ護身術として薙刀も段を持っているそうです、学生写真がこれです」
制服姿でおさげ髪の清楚な少女がそこにいた。黒髪の美少女だった。
「……なんだろう。見たことあるような気がするけど、真子さん、いや鼻筋は父に似ているかな」
「こういっては失礼かもしれませんが、慎也さんに良く似ているかと」
「背は真子さんよりも低かったかな」
「あの頃より伸びたかもしれませんよ」
「よし! 絶対見つけてくれ」
御子柴も微笑んだ。
「現在は母方の祖母を捜しています。それが判明すれば早いですね」
「今後は随時知らせてください。私も事務所に出向きますので」
「わかりました」
……ああ、鈴子。必ずお前を探してみせるぞ。
窓の外は満月だった。慎也は秋の夜に妹を思っていた。
初公開 2018・8・29
再公開 2024・11・8
最初のコメントを投稿しよう!