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56 熱い戦い
翌日の早朝の中央第一営業所。姫野は昨日の写真を見ながら、平医師の攻略法を考えていた。
……赤レンガ診療所は、前社長が懇意していた先だよな。
昔は朝から診察券を出しに来て並ぶほどの大人気だったという診療所の荒れ果てた様子に姫野はため息をついた。医療機器が高価だった時代、町医者は聴診器で病を見つけ、目視で身体の不良を発見していた。
……だが、憐れんでばかりいられない。仮は返してもらわないと。
姫野は平から薬代をもらおうと本気で考えており、その方法を考えていた。
「おはようございます。清掃です」
「お! ちょうど良い所に来た……」
姫野は手土産を相談しようと思い、小花に平老人の経緯を話した。
「君なら何を買っていく?」
「そうね……一人暮らしのご老人なら。うなぎ弁当とかいいんじゃない? それよりも、その画像の病院なんでしょう? ずいぶんお家が寂れてい流のね……悲しくなるわ」
椅子に座っている姫野の肩越しに写真を覗いた小花は、悲しい顔をした。
「君もそう思うか、俺も寂しい老人に思えたんだ」
そこに風間がおはようと入ってきた。
「またあのジイさんですか? 全然寂しそうじゃないですよ。あれは演技ですよ」
そういって風間はデスクにバッグをデンと置いた。小花は掃除を始めた。
「でも風間さん。そのお爺さんは一人暮らしで車椅子なんでしょう?」
「そうだったね。家族もいないようだし、ディケアサービスを受けているんじゃない」
「あのね、風間さん。ヘルパーさんはお家の手入れまでは出来ないのよ。ちょっと、もう一度写真を良く見せて」
「はいはい」
スマホを手に取ってしみじみ見つめる彼女を姫野は上目遣いで見つめた。これに気が付いた彼女は頬を真っ赤に染めた。
「……私の顔に、何か?」
「眼と鼻と口だ。ところで、うなぎ以外だったら何がいい?」
じっと見つめる姫野に小花は恥ずかしそうに語る。
「お夕食で、すぐ食べられる物ですね。お寿司とか、すき焼き弁当とかです」
「ありがとう、わかった。よし! 風間行くぞ」
彼女からスマホと優しい想いを受け取った姫野は、上着を取り営業所を出て行った。
◇◇◇
姫野は風間と一緒に毎日弁当を携えて赤レンガ診療所へ通うようになった。平老人がディケアサービスを受けている事を知った彼らは、平老人がいる4時過ぎに訪れると、少しずつ会話をしてくれるようになってきた。
「おい、昨日の弁当はダメだ! 肉が固かったぞ」
「ええ? 冷めただけでしょう」
「うるさい」
風間お勧めのジンギスカン弁当は、無残にもつっかえされた。風間は不貞腐れていたが姫野は本日の弁当を机の上に置いた。
「今日は、親子丼です。どうぞ」
「……しかし、姫野と言ったな。お前も変わった奴だな。俺に構う暇があったら他所の得意先に行った方がいいだろうよ」
弁当を彼の横に置いた姫野に、老医師は呆れたように言った。これを聞いた風間は医師に意地悪そうに答えた。
「平先生。姫野先輩は、夏山のトップセールスですから問題ありません」
「ふん! 夏山俊也に比べれば、お前達なんかひよっこだよ」
姫野はフフフと笑みを浮かべながら老医師に向かった。
「平先生は、前社長と個人的に親しかったと伺っています。俊也社長はどういうセールスマンだったのですか?」
老医師は親子丼の蓋を開けながら、話し始めた。
「あいつは熱血営業マンだ。薬屋のくせに医者のためじゃなくて、患者のために動いた男だ」
「具体的に言いますと?」
「……東に病の母あれば、担いで病院に運び、西に病の父あれば、医師を紹介したりだな。要するに病人をどんどん連れて来るんだよ」
「伝説のセールスってそういう事なんですか……なるほど」
感心する姫野を横目に、老医師は親子丼をむしゃむしゃ食べた手を、ふと止めた。
「おい、これなんだ?」
「お口に合いませんでしたか?」
「いや。美味いが、これは匙じゃないか」
割り箸ではなくスプーンがついていたことに平老人が気がついた。姫野は微笑む。
「実は今日の親子丼を用意した者が、こちらの方が食べやすいのではないか、と申しまして」
車椅子の彼は、箸よりもスプーンの方が楽なのではないかと配慮に平は感心した。
「気が利くな……年増の事務員か? な、そうだろう?」
「いいえ。十代の女性です」
「嘘言え!
「本当です……うちの会社に派遣で来ている19歳の女性です」
姫野は、持ってきた親子丼は、卸センターの食堂で、特別に薄味でご飯も軟らかめに作ってもらったと語った。
「やけに気が利くな、19歳か」
「はい。彼女は幼い頃、こちらの医院で予防接種を受けていたとの事で、恩返しと申しております」
姫野の言葉に平はふと手が止まった。
……俺がそんな事したのはアイツの娘だけのはず、いや? そんなバカな……
その当時、妻を亡くした彼は病院を休んでいた。だが心配で来てくれた夏山俊也がせがむので、彼の娘だけは診察をしていた事を思い出した。
……あれが、最後の診察だったかもな。
「まあいい。おい。ボンクラ、お茶!」
「俺のこと? はい、はい……」
ボンクラで返事をした風間に医師を任せた姫野は窓を開けて、声を掛けた。
「おい! 暑いから、無理するなよ」
「はーい。もう少しだけです」
そして窓を閉めた姫野に、老医師は振り向いた。
「ん? 外で何をしておるんだ?」
「その彼女はどうしても、草取りをしたいと申しまして。もうすぐ終える所です」
姫野の言葉を聞いた平は、スプーンを置いた。
「バカ? こんな暑い日にさせるな、そういうのは風間がやれ!」
「はいはい、俺達はもう帰りますから……」
昨日のジンギスカン弁当を持った風間は、姫野と一緒に診療所の外に出た。
「うわ、先輩すごいですよ」
「この時間でこんなにむしったのか?」
「……もう終わりにするわ」
草の山から顔を出した小花を見た姫野と風間は驚いた。小花も草の山に満足げである。
「ふう、夢中になっちゃわ」
「本当に熱中症になるぞ? おい風間、ゴミ袋に草を入れろ。会社に持って帰るぞ」
「ふあーい」
こうして三人は大きな袋に草を積み、病院を後にした。
◇◇◇
翌日の9月30日。風間の新人戦の売り上げの締め日。夏山ビルは朝からピリピリした空気に包まれていた。
「どうですか」
「姫野係長、今は風間さんがトップです」
五階のオープンフロアの利益管理部。姫野は事務員のパソコンを一緒に覗き込む。
現在トップは風間諒であったが、帯広営業所の織田も追い上げて来ていた。しかし、これはまだ戦いの序章に過ぎなかった。
「ひ、姫野さん。帯広の織田さんは、得意先に来月分の薬品も購入してもらっているようです」
朝っぱらから背後からパソコンを覗き込んでくる姫野にドキドキしていた。姫野は事務員の気持ちなど一切構わず尋ねる。
「それは、彼の得意先全部ですか?」
「全部ではないですけど……あ! 今、また発注がありましたね」
リアルタイムでわかる動き。事務員は、織田は、全得意先に医薬品の購入をお願いしているようだと語る。想定内の姫野はさらに聞く。
「そうですか……このまま行くと、織田が上ですか」
「はい、もうすぐ織田さんが抜きますね」
うーんと姫野は、態勢を戻した。実は背後に立っていた風間は呑気にもらったドリンクを飲んだ。
「あの、先輩? 俺達、こんな情報を見ても良いんですか? 帯広の方は、地方だから俺達の情報は掴めないんでしょ?」
姫野が見せてもらっているのは本社のデータである。中央第一営業所はあくまでも営業所であり見ることができたい。だが一階から飛び出し五階の事務員の席に座っている姫野は画面から目を離さない。
「構わん。地の利だ」
「でも、それじゃ帯広側に不公平じゃないですか」
「そんなことない。だいたい帯広側が知りたければ電話で答えるだろうし、そもそも見たければここに来ればいいんだ。そうですよね?」
「は、はい。問い合わせがあれば全てお答えしています」
事務員はドキドキで答えた。姫野は彼女を見つめた。
「あの、風間の不良債権の回収金ですが、これはまだ未入力ですよね?」
「はい。ギリギリに入力すると聞いています」
……帯広はこちらに合わせて売上を伸ばしてくるからな。
売上は発注された時点でデータに反映される。だが薬代の回収を現金で受け取った場合、経理が受理し、パソコンに内容を入力して初めてデータに反映される。風間はこの現金をまだ入力していない。
……競っているのはポイントであり、売上額ではないからな。
大量に販売しても赤字では意味がない。今の風間は売上額は敵わないが、利益では上まっている。姫野の作戦は無理して売上額を伸ばすのではなく、得意先の借金を返してもらい、利益を伸ばす作戦だった。
姫野は締め切り時間のギリギリに、回収金を入力して欲しいと経理に頼んでいた。
「あの……姫野さん、予想の計算したのですが、今の織田さんと、今の風間さん+回収金では、本当に僅差ですが、このままだと織田さんが上かもしれません」
……やはりこっちも売上を伸ばさないとダメか。
織田の売上額が伸びていることを確認した姫野は、作戦変更を決め立ち上がった。
「ありがとう! 締め切りの6時前に来ます。行くぞ風間」
「お世話になります! また!」
「はい! はあ……」
二人のイケメンに囲まれた事務員は、その熱でデスクに突っ伏した。
「なした?」
リンダ部長が駆け寄ると事務員は変な汗をかいていた。
「リンダ部長、私、鼻血が出て」
「ティシュを詰めなさい! ほら」
「でも、格好悪いし」
「大丈夫! はい。ああ……大丈夫、似合うわ」
「でも、目立ってますよね」
「安心して! 誰もあなたを見てないわ。私を見ているんだから」
「そ、そうですね」
秋の夏山ビルの戦いは、こうして熱く始まった。
完
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