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58 シンデレラのため息
……昨日は、追い返しちゃったわ。
朝、出勤前、自宅にいた風間の新人戦の争いに振り回された小花は、姫野に八つ当たりをした気分で落ち込んでいた。ため息混じりで燃えるゴミを捨てようと表に出ると家の前に彼の車が停車した。
「鈴子、昨日はごめん」
「……ゴミを捨ててくる」
「俺が捨てる」
「あ」
姫野はゴミ袋を奪うと置き場に捨ててきた。そして小花の家に戻り、おずおずと玄関に入った。
「あの……その」
「どうぞ、まだ早い時間ですものね」
「……失礼します」
……まだ怒っているな。
ビクビクしている姫野であるが、小花は彼の顔を見ずにキッチンでコーヒーを淹れていた。
「パン、食べますか」
「あ、ああ、それよりも昨日はごめん」
「……何が悪かったのか言ってみてください」
「はい」
姫野は小花に謝るように語る。
「ええと、君の意見を聞かなかったこと。それに、言い方も悪かったこと……」
「他には?」
「ほ、他? ええと、その……とにかく俺の態度が全部悪かった! すまない」
……ずいぶん、落ち込んでいるわ。
もう怒っていない小花はしょんぼりしている姫野がおかしかった。
「鈴子……俺を許してくれ、なあ! 頼むよ」
「どうしようかな」
本当はとっくに許している小花は彼に背を向けている。姫野は思わず小花の顔の方を向いた。
「鈴子、本当に……あ」
「ふふふ。もう怒ってないわ」
姫野は安心したように小花を抱きしめた。
「よかった……このままもう、一生口を聞いてもらえないかと思った」
「大袈裟ね」
仲直りのキスを交わした二人は、簡単な朝食を済ませた。そして姫野が運転する車で会社へ向かった。
「そういえば、昨夜は学校だったのか」
「うん。居残りだったの」
小花は数学の問題が解けず残されてしまったと打ち明けた。
「京極君も嶋君も解けたの……私だけできなかったの。でも最後はわかったのよ」
「まあ、俺も教えるし、それに仕事も休むんだから今だけ乗り切ればいいさ」
「そうね。まずは試験を乗り切らないと」
助手席の小花は気合を入れていた。そんな彼女を姫野は横目でチラリとみた。
……休業に入ったら、婚約した方がいいな。
互いの気持ちは繋がっていると彼は解釈しているが、彼女を自分に繋ぎ止めておきたいと姫野はずっと思っていた。
「姫野さん。どうしたの?」
「あ、ああ、ところで。夏山の仕事もあと少しだな」
「そうなのよ」
小花は、9月いっぱいで休業に入る予定であったが、給与や契約の関係の事情で10月10日までの勤務になった。誰にも言わずに休みに入るが、卸センターの掃除の引き継ぎがあると語る。
「そこまで面倒な事じゃないけれど、私がいなくても他の人がお掃除の場所をわかるように紙に書いたりしているの」
「そんなことをしたら休みに入るのがバレないか」
「大丈夫よ。お掃除隊はデビューすることしか考えていないもの」
「それは好都合だな」
秋の札幌の大通公園を見ながら二人は卸センターにある夏山ビルにやってきた。そして小花は五階に行き清掃服に着替えて掃除を始め、姫野は中央第一営業所で仕事を始めた。
「おはようございます……ふわ」
「おはよう、昨日はよくやったな」
姫野に褒められた風間は眠そうに頭をかく。
「別に、俺は何もしてないですよ。頑張ったのは先輩っていうか、俺の周りの人みんなですから」
「風間、お前」
……あんなに辞めたがっていたのに?
風間の成長に姫野が感動する中、彼はだるそうにコーヒーを飲んだ。
「先輩も飲みますか? それよりも今日は、お礼に回るんでしょう」
「ああ、そうだな」
コーヒーを受け取った姫野に風間は淡々と語る。
「売上に貢献してくれた先生っていうか、発注してくれたのは事務員さんなんで、俺、お礼のメール入れときます」
「そうだな」
「あと、社内とかメーカーの人から、俺におめでとうってメールが来てるんですけど、これはどうします? 返事してもキリがない感じですけど」
「そうだな」
姫野はメールの内容をざっと見た。
「これはお前は返事をしなくていい。部長からお礼のメールを流してもらうよ」
姫野は『うちの風間がおせわになりました』という内容のメールを石原にメールしてもらうと語った。
「一応、お前の上司だし、社内やメーカーさんは部長に任せよう。お前は得意先にお礼をしろ」
「はい、あ、おはようございます」
「ふわ……おはよう」
石原が眠そうな顔で出社した。
「昨日はお疲れさん……ふあ、眠い」
「昨夜は打ち上げですか」
姫野がコーヒーを石原に渡しながら尋ねた。石原は机に突っ伏す。
「そ」
「ん?……それって、俺の会ですか」
メールを打ちながら尋ねる風間に姫野はため息をつく。
「それもあるが、いいか? 9月っていうのは半期の締めでもあるんだ」
姫野は4月から9月の売り上げ目標があったと話す。石原も語る。
「そうだぞ……風間がバカみたいに売ってくれたおかげでな。うちの営業所は11月まで目標をクリアしちまったんだ。これを祝して渡と飲んだんだ」
「そうか、俺も役に立っているんですね」
「おはようございます……皆さん、お早いことで」
松田が出社し机の上にバッグを置いた。風間は椅子の向きを変えた。
「おはようございます。松田さん、昨日は本当にありがとうございました」
「いいのよ、仕事だから」
「いや、そんなことないっす。松田さんがいないときっと目標に届かなかったです」
お世話になったと風間は頭を下げた。松田は微笑む。
「仲間なんだからそんなことしなくていいのよ。それよりも今朝は月初の朝礼ね。行きましょう」
毎月、一日には五階のオープンフロアで全社員が集まって社長の挨拶を聞く。このため四人もゾロゾロと五階まで移動した。ついでにリンダがいる利益管理部と良子がいる経理部にお礼の挨拶をした姫野と風間は、ラジオ体操が始まったので仕方なくこなし、終了後、朝礼に参加した。
「では朝礼を始めます。まず、営業報告。石原部長、前に」
「はい」
権藤の司会で石原が壇上に上がった。
「ええ、と。中央第一の石原です! ええと、うちはお蔭様をもちまして目標を達成しております。また、9月の新人戦においては、うちの風間が目標を達成しましたことをご報告します……ええと、姫野、まだ何か言うことあるか?」
不安そうな石原は振り返るので背後にいた姫野が伝える。
「……『ご協力に感謝と共に、今後もご指導をよろしくお願いします』で」
「わかった。ええと」
姫野の内容をそれっぽく言い、石原の報告は終わった。
「次、第二営業所、渡部長」
「はい! 渡です。我が第二営業所においては誠に残念ですが、目標達成に至りませんでした」
未達成に関わらず、私は堂々と報告する。
「理由でございますが、得意先の病院が耐震工事のため患者が来院を控え、売り上げが落ち込んだこと。他には豊平のエリアにできた新しい病院に患者が流出してしまったことが挙げられます」
キビキビと言い逃れをする渡の説明を慎也は真剣に頷きながら聞いている。
「他にもです。うちのエリアの得意先の医者で、YouTubeにていかがわしい内容の動画をアップしてしまい、お縄になった方がいます。その医者が誰なのか特定されないので、そのエリアにある全部のクリニックに患者が来ない、ということが起きています」
慎也は気の毒だな、と顎に手をおく。渡は眉を顰めて話し続ける。
「うちとしても無関係の得意先をお守りしたいので、今はSNSにて無関係の得意先を応援するようにフォローし、風評被害の払拭に努めております、以上です……」
言い訳を終えた渡はキリッとした顔で壇上を降りた。そして権藤がいちいち壇に上がる。
「続きまして、社長挨拶」
「はい。皆さん、おはようございます」
権藤と代わった慎也は、神妙な顔つきで話し出した。
「昨日は新人戦だったと聞いています。風間がトップ成績ということで、おめでとう」
慎也の言葉で社員全員が拍手をした。慎也も笑みを浮かべ話を続ける。
「ああ、そうだな……ええと、アメリカも大統領がトランプさんになり」
いきなりアメリカの話に飛んだので社員達は、驚きで慎也を見た。慎也は思いついた話をしているようである。
「トランプさんが大統領の時、日経平均株価が下落したので、今回も日本株が下落すると思われます。今後、輸出は厳しいですが、輸入は良いと思います。さらにアメリカと中国の関係が悪化する可能性があるので、今後、日本と中国の関係がよくなる傾向にあり」
慎也の語る経済予測に女子社員が手を挙げた。
「社長! 私、投資信託を始めたのですが、それはどうすればいいですか」
「Nisaかな? 株が高い時に始めたのならこれから株は下がるかもしれないよ」
「え? じゃあ、解約した方が良いのですか」
他の社員も同じ気持ちなのか慎也の答えを必死に待つ。慎也が微笑む。
「…………それを自分で考えるのが株式投資だよ、ええと、何を話していたんだっけ」
「社長! では北海道の経済はどうなるのですか!」
渡の質問に慎也はちょっと考えた。
「そうだね。まず農業はお米が良くなるよね。台風や水害で九州や関東の米作りは安定しないし、そして漁業はAIの活用をしていくようになっているよね」
「AIですか」
「そう。AIが学習して海水温や魚の動きに合わせて漁場を教えてくれるから、そこに船を出せば無駄がないし、養殖の場合、いつ収穫するかとかわかるからね」
「なるほど」
「今まではベテランの勘でやっていた仕事を、新米の人でもできるようにするってことだよ」
渡はなぜかメモをしている。
「では、北海道は経済は良いってことですか」
「うーん。札幌とか街には人が集まるけれど、地方は過疎になってこれからはインフラの整備が間に合わないね。道路や橋の老朽化でも直せないって町が出てきて、そのうち砂利道になると思うよ」
「砂利道ですか」
「ああ、でも砂利道はいいんだよ」
「なぜですか?
渡は不思議そうに顔を上げた。
「水が浸透するから水害対策になるんだ」
「なるほど? では自分は砂利を扱っている会社の株を買えばいいのだな……」
「おほん! 話はそれましたが、そんな感じで10月も頑張りましょう」
こうして朝礼が終わった。慎也が廊下に出ていると小花がモップを持って脇に立っていた。
「おはよう。小花さん」
「……あの、社長」
「ん?」
小花は真剣な顔で慎也を見つめた。
「私、株の話を聞いて……とても難しかったんですが、私もお金を増やしたいのですがどうすればいいのですか」
「そうだ、ね。一番簡単な方法はね」
慎也は小花に解くように語った。
「お金を使わないことだよ」
「え」
「小花さん。一万円を稼ぐのは大変だけど、一万円を使わないようにするのはできそうじゃない?」
「た、確かに」
「株はリスクがあって、減る可能性があるんだ。でも、一万円を使わないで貯めるのはリスクがないでしょう?」
社員が多く通るので慎也は小花の肩を抱くようにそっと脇に寄せた。小花は話に夢中である。
「そうですね……それなら私でもできそうです」
「小花さん。あと少しだね」
「あ? そ、そうですね」
慎也は寂しそうに小花を見つめた。
「でも、応援しているよ」
「……ありがとうございます」
慎也は良かったと頭を撫でた。
「ま、休むだけだし? すぐに戻ってもらうからね」
「はい」
……本当は、もう戻ってこれないかもね。
実の妹である小花の心を知らず、慎也は寂しく微笑みを残し、廊下を去った。
秋の10月。夏山愛生堂はスタートした。小花の清掃員の仕事はあと10日間。モップを携える小花は愛しい兄の背を切なく見守っていた。
完
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