178 はじめての人

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178 はじめての人

「あ、これ……懐かしいわ」 午後。机の中を整理していた中央第一営業所の松田は、奥から冊子を取りだした。掃除をしていた小花は背後からのぞいた。 「なんですの?」 「社内報よ」 「社内報?」 モップを片手の小花は首を傾げた。松田は髪をかけ上げ微笑んだ。 「ふふ、昔はね、夏山愛生堂新聞って社内の新聞があってね。今はメールで来るんだけど、これは面白いから取って置いたのよ」 「これって。昔の姫野さんですか?」 「そうよ。え?どうかした」 「いえ……姫野さんの弟さんにそっくりで。びっくりしたんです」 この記事は姫野が入社した一年目の3月号だった。松田は椅子に背もられながら説明をした。 「これはね。2月14日のバレンタインデーに、姫野君に大量のチョコが贈られたっていう記事なの」 「まあ」 会社の前に立たされて無表情の姫野の背後にはトラックが停まって映っていた。とてもそんな写真に見えない小花は、松田に写真を返した。 「もしかして、このトラックの荷物が全部そうなんですか?」 「満杯ではないけど、そうよ」 「……すごい人気ですわね……」 姫野の人気ぶりに驚く小花に、松田もへえと驚いた。 「そもそもね、姫野係長はスタイルも良いし、ハンサムだからモテるじゃないの」 「ハンサムなのも知りませんでしたわ。そうか、ああいう顔がハンサムなんですね……」 仕切りに感心している小花に、松田はどうぞと椅子を進めた。 「へえ。小花ちゃんは、姫野係長の見た目がいいわけじゃないのね」 「このビルに来た時に社員さんの中で、姫野さんは立ち振る舞いが一番素敵だとは思っていました。ふーん……」 この話しに松田をどんどん食い込んで行った。 「じゃあさ。小花ちゃんは姫野係長と話をする前から彼の事を知っていたんだ?」 「はい。お仕事熱心で、いつも早く来ていましたし、物を大切にする方だから、私は知っていました」 「あのさ、ちょっとはっきりしておきたいんだけど、もしかしてさ、話をする前から気になっていたの?姫野係長の事」 すると小花の顔は真っ赤になってしまった。 「どうしてかしら?恥ずかしいですわ……」 そういって顔を隠してしまった小花に、松田の方がドキドキしてきた。 「え?じゃあさ……初対面でさ、小花ちゃんは姫野係長に叱られたでしょう?風間君との事を誤解されてさ。あの時めそめそしていたのって、もしかして……」 「よく憶えておいでですね……」 彼女は話しによると実はあの時は、何を怒られているのか、理解不能であり、さらに姫野に電話で来るように呼ばれたのに、顔を出すな!と怒られた事は今でも理解不能だと言った。 「私、姫野さんをとても怒らせてしまって……あの夜はものすごく泣いたんです」 「そうだったの。そうよね……憧れていた人に訳の分からない理由で怒られたんだものね……」 「……今の話は本当か」 「え?」 小花が中央第一営業所を見渡すと、ソファに彼が寝そべっていた。ソファと同系色の膝掛けで仮眠していた姫野は、ゆっくりと起き出した。 「起こしちゃった?ごめんね、ついエキサイトして」 「……松田さんは、姫野さんがいたのを御存知でしたの?あの、私……失礼します」 「待て!逃げるな!」 頭痛がするので薬を飲みこの営業所のソファで横になっていた姫野は、ここに冷房の風が直接当たるので、松田が薄いタオルケットを彼に掛けていたのだった。 「鈴子……俺の熱を測ってくれ」 「あらら?何度あるのかしら。私は総務に行ってきますね。小花ちゃん、よろしく?」 姫野に言われて体温計を取り出した小花は、彼にそっと手渡した。 「大丈夫?姫野さん」 「お前がいればな……そうか、鈴子は俺の事を出会う前から知っていたのか」 嬉しいような気もするが、もしかして見せてはいけない一面を見せていたかもしれないので、彼はドキとした。 「まあ。そうなりますね……でも姫野さんは……鈴子の事は御存じなかったでしょう……」 「確かにそうだな……。でも、毎日顔を合わせれば、さすがに俺でも気が付くはずだが……」 すると小花は恥ずかしそうに姫野の額に手を置いた。 「ごめんなさい。あの時の鈴子は、姫野さんのお仕事の邪魔になると思って……一所懸命避けていたの」 「なんでそんな事を」 「だから姫野さんのお仕事の邪魔を」 すると彼は小花の手首を掴んだ。 「俺が聞いているのはな。なんでそんな配慮をしたんだって事だ」 「なんでって……?それは、その……」 顔を真っ赤にして俯く彼女の頬に姫野はそっと左手を置いた。 「鈴子……。もしかして、お前……最初から俺の事……好きだったのか?」 彼にじっと見つめられた彼女は、もう身動きできなかった。 「お願い、姫野さん……鈴子に意地悪しないで。これ以上は、聞かないで……」 「……ちょっと待った―!?そこでストップ!」 椅子でうたた寝していた部長の石原は、このラブ会話に目が覚め、耳をパラボラアンテナに広げ、会話を受信し、突っ込みのタイミングをずっと待っていた。 「はあ、はあ……良かった?……俺がいて。あのな。今は真っ昼間で、お前達は仕事中なんだぞ!そういうのは家でやれ!」 「だとさ。鈴子」 「姫野さん……お仕事しましょう。頭痛はどう?」 「お前が熱を測ってくれたから。ケロリと治ったよ」 「まあ!嬉しい」 「いい加減にしろ!全く……俺が心筋梗塞を起こす前に。結婚してくんねえかな……。こっちが落ち着かないぜ」 ブツブツ話す彼の話は二人には聞えなかったが、彼らは通常業務に戻って行った。 その夕刻。小花は大人しく自宅へ戻り夏休みの課題に取り組んでいた。 「そもそも夏休みがないのに。どうして課題を出すのかしら……。先生は生徒に宿題を出し過ぎるわ」 文句を言いながら小花は伊吹のアドバイス通りに宿題を進めて行った。 しかし。量がたくさんでなかなか減らなかった。 ……答えを写しても写しても終わらないわ……。ふあ?眠い……。 今夜は雨なのでナイトジョギングを休んだ小花は、眠い目を必死にこすって課題の答えを巧い具合に写していた。 でも、実際は疲れてテーブルに顔を埋めていた。 そして朝。小花はテーブルの下に寝転んでいた自分に驚きながら起きた。 「夏山に行かないと……でも、頭が痛い……」 熱を測ろうとしたが、電子体温計の電池がなくなっており、使えなかった。 ……だめだわ?今日はお休みしよう。 小花はそう決めると吉田にメールし、自室に向い、ベッドに横になった。 最近はめちゃくちゃハードスケジュールであったし、さらに課題を仕上げるという難儀な宿題に、彼女の熱は急騰していた。 ……熱いわ……でも、水を飲まないと、熱は冷めないわ……。 彼女はガンガン痛む頭を抑えて、キッチンへ向かった。 ……今は何時かしら。今日も暑い……。 熱で朦朧としていた小花は、いつのまにかそばに合ったソファで眠ってしまった。 ◇◇◇ そしてしばらく眠った彼女は、美味しそうな匂いで目が覚めた。 「どうしてここに……」 「お嬢様の一大事ですぞ?爺が来なくて誰が来るのですか」 そう言って彼は小花にスポーツ飲料を飲ませた。 「ささ、お飲みください……爺がおそばにおりますぞ」 「アイスの店はどうしたの」 臨時休業したと義堂は誇らしげに話した。 「それにしても、そんな薄着でソファでお休みとは、風邪を引こうとしているとしか爺には見えませんぞ」 「ごめんなさい。でもで、爺は本当にどうしてここに来たの?」 義堂は姫野から緊急出動の依頼を受けてやってきたと話した。 「しかし。あ奴の事などどうでもいいのですよ。さあ、お休み下さい」 こうして義堂に看病をしてもらった彼女は、少し表情が柔らかくなってきた。 この天使の寝顔を見ていた時、玄関のチャイムを鳴ったので義堂はドアを開けた。 「どうですか?彼女の様子は」 「今は寝ております……病院に行くほどでも無いでしょう」 義堂の案内で鈴子の寝室に初めて入った彼は、畳の部屋の引いた布団の上でスヤスヤと眠っている彼女の額に手を置いた。 「……熱は何度でしたか?」 「今は平熱です……それよりもこちらへ……」 そういって義堂はリビングに戻り、姫野にお茶を出しながら話しだした。 「お熱の理由の一つは、その宿題じゃ……鈴子さまは昔から知恵熱を出すお子さんでな」 「知恵熱?そんな病名はないでしょう?」 「とにかく!悩み事やお疲れだとああやって、ショートするんじゃ。無理をしたでしょう」 「……自分のせいです。マラソンもさせてしまったし、夏山の仕事も彼女には荷が重かったんです」 すると義堂も湯呑を抱え、椅子に座った。 「青二才が……誰もそこまで言っておらん。それに鈴子さまの体調不良がお主のせいというもの癪に障るわ」 そう言って持つのも熱そうなお茶を飲んだ。 「マラソンは御自分で言いだしたのであろう。姫野殿は反対したかったと思うが、鈴子さまの意を汲んでこれを応援した貴殿に感謝しておる……」 「義堂さん……彼女はどうしてこんなに頑張るんでしょうか……ここまで無理をすることないのに」 俯く姫野に義堂はため息混じりで答えた。 「……姫野殿は鈴子さまが御両親を亡くした話を聞いておいでですな。やはり鈴子さまは心の中で、お母上様を病気で亡くしてしまったことを、ご自分のせいにしているのですな。もちろんそんな事はありませんが。だから、その御身を責める気持ちが、無理をさせるのでしょう」 部屋は一瞬静まり、窓の外からは鳥の声が聞こえてきた。義堂は午後の風に流すように言葉を続けた。 「私も同じ思いでございます。お嬢様をこんな気持ちにさせてしまったのは、義堂一生の不覚です。それに、わかるのです。こういう思いはいくら周囲が言っても、ご本人が納得されない限り消えることはないということも。ですから、姫野殿には、そんなお嬢様を見守っていただきたい」 「見守るだけで良いのですか?」 「他に何をするつもりじゃ?代わりに走るのか?ハーハハハ……良いのじゃ、お主はそばにいれば、あっと?これはわしの番か。どれどれ」 そういって義堂は老眼鏡を掛け、小花が途中まで書き写した課題を広げた。 「……お坊ちゃまとお嬢様の宿題は、昔からこの義堂の担当でしてな。上手いのですぞ……昔、私の描いた絵がコンクルーで金賞を取ってしまいまして。いや~あの時の嬉しそうなお坊ちゃまの顔は忘れられないですな……」 そういって目を細めて小花の代わりに答えを写す義堂の話を、姫野は慎重に誘導していった。 「そうなんですか。彼女とそのお兄さんは何歳離れているのですか?」 「ええと……7歳ですな。お二人ともお勉強が嫌いで……あ?私は今なんと?」 うっかり口を押さえた義堂に姫野は目を光らせた。 「鈴子には7歳年上の兄がいると言いましたよ」 「……聞かなかったことにしてくれんかの。なあ、姫野殿」 すると姫野は立ち上がり湯呑をシンクに戻した。 「今は時間もありませんし。彼女の体調もよくないので……でも今度ゆっくり聞かせて下さい。彼女の事を頼みます」 仕事に戻らないといけない姫野は、夜また来るといい、小花家を後にした。色んな事を考えても仕方ないので、今は目の前の仕事に集中した彼だった。 そんなこんなで仕事を無理やり終わらせた彼は、再び夜、彼女の元にやって来た。 ……山岳パトロールの車がないから。義堂さんは帰ったんだな。ということは彼女は元気になったんだな。 チャイムを鳴らすと、パジャマ姿の彼女がドアを開けてくれた。 「お疲れ様です」 「どうだ。調子は」 「熱は下がりましたの。どうぞお入りくださいませ」 本当にすっきりした顔にほっとした姫野は彼女とリビングに入って来た。 「ねえ。見て、不思議なの。鈴子の課題が終わっているのよ。全然憶えがないけど、どうみても私の字なの」 義堂の熟練の技に思わず姫野は笑いそうになったが、これを押さえて彼女の頭を撫でた。 「これはあれだ。頑張り屋さんのお前を見かねて、夜に小人さんが現れてやってくれたんだよ。よくあることさ」確かに子どもの頃にはよくありましたが、「そうですか。よくあることなのね……」 そういって彼女がキッチンに立とうとするので、姫野が代わりに鍋に向かった。 「このお粥を温めるだけだろう。俺がやるからお前は座っていろ」 「うん。それ、義堂がたくさんつくってくれたの。姫野さんも食べて」 そういって姫野の背後から顔をのぞかせた彼女はフフッフと笑った。 「あのね……熱でうなされている時、夢に姫野さんが出てきたんだけど、松田さんに見せてもらった若い姫野さんだったわ。空さんと大地さんとよく似ていたの」 「お前。間違っているぞ。あいつらが俺に似ているんだ」 「フフフフ。姫野さんがおじ様とは声がそっくりだし。ご家族で似ているのね」 ここで彼女の家族について聞きたいのを彼はじっと堪えた。 「ねえ。もういいんじゃないかしら?」 「そうだな。座って待ってろ」 こうして二人でお粥を食べ始めていた。 「熱いぞ。ゆっくり食べろ」 「少し時間を置きますわ。あーあ。それにして頭がすっきりしたわ。これなら明日仕事にいけます……どうしたの、姫野さん。怖い顔して」 目の前の健気な彼女を一人ぼっちにさせている彼女の兄の存在に、どうしても我慢できなかった姫野は、とうとう思いを吐露させた。 「お前には兄さんがいるんだってな。どうして言ってくれなかったんだよ」 「……どうしてって……今まで鈴子は聞かれたことがございませんし」 「はあ?」 「それにお兄様には訳が合って縁を切られているので、いないのと同じですもの。それがどうかしたの?」 想像と違う彼女の様子に、姫野は今までの苦悩は何だったんだ!と心の中で叫んだ。 「そろそろ大丈夫そうだわ。食べましょう?」 「あ、ああ」 そういって小花は、お粥を食べ始めた。 「……鈴子には姫野さんがいるから、寂しくないもの。だから、お兄様の事は気になさらないで、熱?」 「ほら、水だ。こぼしたのはそれで拭け」 「はい。ん、美味しいです。さすが爺だわ」 「……美味い。へえ?何でもできるんだな」 すると彼女は急に思い出したように、目を見開いた。 「ねえ。さっきの夢は、あれは初めて姫野さんにお会いした時のだわ。フフフフ」 「俺に怒られた時か」 「ううん。鈴子が初めて夏山ビルに来た日にね。どこに行けばいいかわからなかったの。その時に姫野さんに総務の場所を聞いたのよ。憶えてないでしょう」 「俺に?お前が?」 小花はくすくす笑っていた。 「うん。昔からお父様がおっしゃっていたの。道や建物を訊ねる時は、女の人よりも神経質そうで忙しいそうなサラリーマンにしろって。そう言う人は面倒だからシンプルにわかりやすく教えてくれるぞって」 嬉しそうに話す彼女の話しを全然覚えてない姫野は自分は何をしたのかドキドキしていた。 「で。俺はどうしたんだ」 「面倒くさそうに、なんで俺に聞くんだっておっしゃって。そして説明してくれたんだけど、最後は鈴子の手を取って、総務部まで連れて行ってくれたのよ。憶えてないの?よっぽど面倒だったのね、キャハハハ……」 「なんでそんなに笑うんだよ」 「だって。あの時、すごく嫌そうな顔でしたもの。本当に面倒だったんだなって……。あーあ。涙が出てきた……そのティシュを取って、姫野さん」 「ああ」 ティッシュを持ち立ち上がった姫野は椅子に座っていた彼女に渡すふりをして、彼女の目元にキスをした。 「もう?くすぐったい」 「これで今までの無礼を許してくれ」 「フフフ……ダメよ。まだあるのもの」 「いいから食べろ!」 元気になった彼女の頭をそっと撫でた彼は食べ終えた食器をキッチンへ運んだ。 そしてお湯を出して食器を洗い始めた。 窓からは綺麗な月が見えていた。 ……幸せって言うのは、こういうものかな…… 彼の胸にほんわりと芽生えた温かいものは、恋とか愛とかそういうファイルに分類できない新たな想いだった。 「姫野さん。御馳走様でした、あとは私がします」 食器を持ってきた彼女は洗うの代わろうとしたが、姫野はそんな彼女を腕の中に立たせ、そのまま洗い続けた。 「俺が洗うからお前は見てろ」 頭の上から聞こえる彼の声に、彼女も彼に寄り添った。 「恋の町札幌を完全支配するエリートサラリーマン姫野岳人よ。鈴子姫が褒美を遣わす、受け取られよ……」 そういって頬にキスしてくれる彼女のために彼は膝を折って高さを調節してやった。 虫の音がうるさい夏の夜。今夜も二人の楽しい夜は更けて行った。 完
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