2010人が本棚に入れています
本棚に追加
/39ページ
206 さらば!夏山
「あれ?おかしいな……」
中央第一営業所内にある無料サンプルは入っているキャビネットを開けた姫野は首をひねっていた。
「確かにあったはずなんだが。無くなっている……風間、お前ここから生理用のナプキンを出したか?」
「俺に聞くのはおかしいと思うんですけど?違いますよ」
「松田さんですか?あの、使っても構わないんですけど」
「姫野係長。まずは私に訊ねるべきかと思うんですが。でも私じゃないです」
「おかしいな……」
衛生用品のメーカーの人にもらった袋の中にあったものを鈴子にでもやろうとかと思っていた彼は、首をひねっていた。
「お前の思い込みじゃねえのか?いいから仕事をしろ」
石原の声に自分の思い込みだったかな、とし仕事を再開させた。
「松田。これ、書類にサインしたぞ」
「早いですね?はい、総務に通しておきます」
すると石原はすっと立ち上がった。
「俺、ちょっと得意先を回って来る。帰りは遅くなるから」
そういって石原は上着を取って出かけて行った。
「なんか気合いが入ってるな」
「……何もないと良いですね」
上司をそんな風に話す二人も得意先へと出かけて行った。
そして夕刻。姫野と風間が戻って来ても石原はまだ戻って来なかったので、断りを入れて退社した。
その翌朝。夏山にやってきた石原は、分厚い茶封筒を松田に渡した。
「これは?」
「あの例の債権だ」
「例のって、前所長の時のですか?」
中央第一営業所の唯一の汚点であった前の所長時代の得意先のツケをもらって来た石原は疲れた顔で椅子に座った。
「顔色が悪いですが。お疲れじゃないですか」
「珍しいな……姫野が俺の心配をするとはよ」
そんな話の中、松田は札の数を数えていた。
「……確かにあります。ではこれは財務部に預けてきますね」
そういって営業所を出て行った松田を、石原は優しい眼差しで見ていた。
「そうだ。風間。これは俺が入社した時に当時の俊也社長にもらった札幌オリンピックのオ時のピンバッチなんだ。お前にやるよ……」
「いいんですか?あの、急にどうしたんですか?」
石原は青白い顔でふっと笑うと立ち上がりブラインドのすき間に指を入れた。
「俺なんかが持っていても仕方ねえし……それを生かしくれよ、な」
そんな哀愁漂う石原を姫野はじーっと黙って見ていた。
そして今朝も得意先に飛び出して行った石原の事を、部下の三人は話し合っていた。
「絶対変ですよ」
「もしかして。早期退職かしら……。こんな時小花ちゃんがいれば何かアドバイスがもらえるのに」
「鈴子は緊急出動でおりませんし……少し様子を見ましょう」
しかしこの夕刻も古い債権を回収してきた石原に三人はとうとう彼の異変を認めざるを得なかった。
本人はなんでもねえ!と言い張るので、姫野と風間はこの夜、彼の跡をそっと尾行した。
「風呂に行くですね」
「まあ、昔から好きだがな」
桑園駅にある温泉に車を止めた石原を確認した二人はこの後用が入ったので、尾行はこれで止めた。
翌日。石原はまた古い債権を交渉しに、今は介護施設に入居している元ドクタ―に逢うと出かけて行った。
「石原さんは燃えているんですね」
「そうなのよ。仕事が進んで助かるけどね」
男性社員が出動した営業所で小花と松田はまったりしていた。その時、誰かがノックして入ってきた。
「すみません。こちらに松田さんは……あなたがそうなのね!」
「え」
入ってきた二十代の女性は、小花を見て急に怒り出したので、松田が慌てて立ち上がった。
「そっちは違います。松田は私です。失礼ですが、あなたは」
「石原の娘です。あなたね?うちの父をたぶらかしたのは?」
「へ?なんの事ですの?」
驚く小花をギンと睨んだ娘は、松田にくってかかった。
「あなたのせいで、我が家は滅茶苦茶よ!どうしてくれるのよ!」
「これは何か誤解があるわね……、あの、ここじゃなくて隣の会議室で話を聞きましょうか」
非常にワケアリの緊急事態に、松田はここの留守を総務の蘭に頼み、小花と供に会議室で話を聞くことにした。
「それで、一体何があったんですか」
「とぼけないで。うちの父と浮気をしてくるくせに」
「何がどうしてそうなったんですか?部長は会社でも様子がおかしかったんですけど」
「は?分かっているのよ!!」
娘の話によると、石原は毎晩午前様であり、入浴も外で済ませて帰っていると言う。
「しかも下着は我が家の物ではないんですよ?」
「話しはわかりました。で、どうして私と浮気になるんですか」
「……以前から噂で聞いていたんです。そのおかげで母もノイローゼ気味なんです」
そういって娘は少し興奮から冷めて、めそめそしだした。これに小花は優しくティッシュの箱を目の前に置いてあげた。
「あのですね。松田さんと石原さんはそんな関係じゃありませんわ。もしそうならとっくにもっと大事件に発展してると思いますよ」
「……石原さん。確かに私とお父さんはそういう噂が出たことがあります。でもそれは違うんですよ」
松田は椅子に座って話し出した。
「私はこの会社で初めてのシングルマザーなんです。当時の風潮で私は退職しなくちゃいけない雰囲気だった所を、あなたのお父さんがかばって、私を部下にしてくれたんです」
「父が?でもどうして」
「さあ……とにかくそういう事情で、私との関係を疑われたんですけど、私は奥様にもお会いしたことがあるし。今更そんな事はありませんよ」
「でも、でも……」
わっと泣き出した娘に小花は寄りそった。
「これはきっと何かの間違いですわ。お父様を信じましょう」
「ウウウ……でもやはり様子がおかしんです。母は直接聞けずに心労で……睡眠薬を飲んで寝ている始末です」
「お可哀そうに。松田さん。姫野さんに連絡しましょう」
「そうね。あ、そういっている矢先に姫野係長だわ?もしもし……」
スマホの電話に出た松田は彼に事情を話した。
「え?理由が分かったの?はい、じゃ、待ってますね……何か理由が判明したようよ」
「ですって。石原さん。お父様に事情を聞きましょうね」
「はい……すみません」
目を真っ赤にした娘に小花と松田が優しく頷いた。
姫野が帰還するまで待っているのも暇な石原萌子は、松田に頼まれて書類の整理をしていた。
「そうか。萌子ちゃんは就職活動中なんだ」
「そです。専門学校で資格を取ったので、それを生かせる所を探していまして」
「どんな資格ですの?嫌ならノーコメントでいいですよ」
「フフフ!病院とかの窓口で計算するとか、事務ですね」
「うわ……なんかカッコいいですわ?ね、松田さん?」
目をキラキラさせている小花を萌子はふっと笑った。
「父がいつも話している掃除のお姉ちゃんっていうのはあなたなんですね。私よりも仲が良くて羨ましいです」
「石原さんはみなさんと仲良しですわ」
「……父は仕事一筋で、家では寝てばかりですよ?休みの日は趣味のヨットで家にはいませんし」
そう悲しく話す萌子に、小花は掛ける言葉が見当たらすに黙って聞いていた。
その時、ドアを開けて彼が戻ってきた。
「おつかれさまーって、誰?」
「風間君。石原部長の娘さんの萌子さんよ」
「萌子です。父がお世話になっています」
「……こちらこそ、お世話をしてます。って。何が合ったんですか」
その時、開いたドアから姫野が石原を引っ張って返ってきた。
「……離せよ、姫野!あ、萌子?」
「お父さん……もういい加減にしてよ!良い年して誰と浮気してんのよ!」
「はあ?」
「娘さん。お待ちください!ほら、部長、俺から話しますか?」
「……いや。俺から話す。みんな聞いてくれ。俺は死ぬ」
「は?」
「お父さん?」
「嘘ですわ……」
「部長。もう一度お願いします。死ぬんですか?」
風間のダイレクトの質問に石原を悲しく俯いた。そんな彼をソファに座らせた姫野は、ふうと息を吐いた。
「得意先に聞いたら、『俺は末期のがんだから、死ぬ前に溜めていた薬代を払ってくれ』と言いまわっていました」
「お父さん!人間が分かるように説明して!早く!!」
ヒステリー気味の萌子に、石原はシューンと下を向いた。
「こうなったら、仕方ねぇな……俺な、血便が出たんだよ」
「血便?」
そういって石原は頷き椅子にもたれた。
「やはり。生理用ナプキンを持ちだしたのは部長ですか?」
「ああ……」
姫野の推理の前に石原は目を瞑った。
「皆さん。部長の流れはこうです。出血を誤魔化すために温泉に入り、新しい下着を購入し、身に付けて帰宅していたのです」
「なんでそんな面倒臭い事を?奥さんや娘さんに正直に言えば良いじゃないですか」
「言えるかよ!嫁は介護で忙しいし。娘は就職活動しているんだ!俺のせいで家族に心配掛けたく無かったんだよ!」
「お父さん?……バカよ、本当に」
「石原さん……」
萌子と小花が涙している時、風間はすっと手を挙げた。
「すいません。それって部長は病院で診てもらったんですか?」
「まだだけど……この出血は半端じゃねえぞ?」
そんな彼の話を聞いていた姫野は風間の隣にやってきた。
「先輩はどう思います?」
「顔色が悪いのは出血のせいかな。それに話しのイメージだと鮮血のようだしな。まずは病院だな」
「俺もそう思います。どこの病院にしますか?」
そんなひそひそ話の男を尻目に、萌子は父に怒っていた。
「バカ!私の就職なんかお父さんに関係ないでしょ!」
「だってな。お前、一人暮らしをしたかっただろう?それなのに俺が病気だったら、お前は家を出にくいじゃないか」
「え?」
「俺はな、お前に何もしてやれなかったからさ。せめて自由に生きて欲しいんだよ」
「お父さん?……」
「俺が死んでも母さんと仲良くしてやってくれ。あいつは友達がいないから、萌子だけが話相手なんだ」
「……お父さん……本当にバカね?どうしようもないわ……」
この父娘劇場に感動した小花は姫野の背でずっと大泣きし、松田もタオルで顔を覆っていた。
この時、姫野と風間は石原の病院を吟味し、翌日には検査を受けさせた。そして検査で入院した石原をお見舞いした姫野と風間は、たまたま医師が病室で説明している時に立ち会えた。
「痔?」
「そうです。そこからの出血で貧血になっていますね」
「先生?では大腸がんではないのですね」
「はい。大腸がんではありません。今後は手術で肛門の傷を治しますので、これで失礼します」
「ありがとうございました……それに、姫野さん、風間さん。主人がお世話になりました」
付き添っていた石原の妻はそう言って二人に頭を下げた。
「いいえ?ご主人にはいつもお世話になっておりますので」
「そんな事ないです。それに娘の萌子が会社にお邪魔したそうで。本当に恥ずかしいです」
そんな夫人に姫野はニコと笑った。
「お父さん思いで素敵なお嬢さんですよ……うちの清掃員と事務員の松田もそう申しておりました」
「そう言っていただけると、私も気が楽です」
「おい!姫野。これ見舞いでもらったんだけどよ。俺は食えねえから松田と姉ちゃんにやってくれ」
「わかりました」
手を挙げた石原の笑顔と夫人の優しい眼に挨拶をして姫野と風間は肛門クリニックを後にした。
車まで戻る道、同部屋の患者の顔が暗かったのは、痔以外の病気だった可能性があるが、これを気にしても仕方が無いので、本社に戻る事にした。中央第一営業所では彼女がいた。
「おかえりなさいませ!あ、電話だ。もしもし……夏山愛生堂です。あいにく担当者は急用が入りまして誰もいないのです。はい……お怒りはごもっともですわ。どうぞ私にそのお怒りをぶつけて下さいませ……はい、そうですか?でも伝言は聞かないかもしれないので、明日、もう一度電話をして頂けませんか?私ですか?臨時の素人の小花です、どうも……」
こんなひどい電話番だったが、姫野は彼女の肩を抱いた。
「上出来だ。部長はね。さっきメールで伝えたが、もうすぐ退院だよ」
「良かった……萌子さんも安心ね」
腕の中の彼女はほっとして石原のデスクを見た。その時営業所に松田が戻って来た。
「……留守番ありがとうね。あ、姫野係長。私も石原部長の奥さんから連絡をもらいました。それとですね。現在のうちの営業成績なんですけど、部長の債権回収でおかげで史上最高の利益がでてました」
「部長が死ぬ思いで回収したので当然ですよ……って、鈴子は何をしているんだ?」
急にバケツに水を汲みだした彼女はにこと笑った。
「石原さんが頑張っているんですもの。鈴子もピカピカにお掃除してお迎えしたいの」
そういって彼女は鼻歌交じりにぞうきんを絞って行った。これを見た風間は笑顔で背伸びした。
「先輩。俺も部長に言われてた書類、書いちゃいます」
「そうだな。俺も欲しがっていたタレサングラスをネットで買っておくか」
「大した部長さんね……」
夏山ビル中央第一営業所の石原はこうしてみんなに愛されて、あっと言う間に復活した。
「おはようござます!石原さん、ご覧になって!このクッション」
「おお?ドーナツ形か。嬉しいな」
「部長。溜まっていた仕事はすべてクリアです。今は仕事待ちの状態です」
「だから何も無いのか。スッキリしていいもんだな?」
笑顔の石原は小花が用意してくれた椅子に座った。風間はパソコン越しで笑みを見せた。
「部長。俺も未収だった債権を『部長が死ぬかもしれないから』って言って回収しちゃいました。すみません、勝手に部長を使って……」
「いいぞ、全然構わない!今後も俺でよければ何でも使ってくれ!あ、なした?姫野」
「……快気祝いです。どうぞ、鈴子が選んでみんなでお金を出しました」
「これは……俺の欲しかったミラータレサングラスじゃねえか?なしてこれを?」
驚く石原のデスクを部下達はそっと囲んだ。
「退院おめでとうございます。やっぱり石原さんがいないと、寂しいですわ」
「俺も。部長のボケを聞かないとエンジンがかかりません」
「どんなエンジンなのか知らないが、まあ、自分も困るので」
「良かったですね、部長。御家族にも部下にも心配されて……」
すると石原はぐっと涙を隠すようにミラーグラスを付けた。
「うるせぇ……もう、得意先に行け……」
「うう……石原さん……これで涙を……やだ、ぞうきんだわ?」
ハハハハと笑いがこぼれた営業所には朝の8時を知らせるリボンちゃんの声がしていた。
夏山愛生堂本社ビルの中央第一営業所は、今朝も愛に染まっていた。
完
最初のコメントを投稿しよう!