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225 いざ甲子園
「ね。怖いでしょう。石原さん」
「おお。寒気がするな」
「一体何の話ですか?」
朝の中央第一営業所で姫野が話す内容に石原は身体を震わせていた。
「甲子園に行く龍生君の話です。甲子園に行くって決まった途端、お家には逢ったことのない人から親戚です、って電話がたくさん来てるんですって」
「向うは嬉しいのかもしれんが、ほとんど他人だしな。そうか、親戚名乗りか」
「姫野は北海学院が嫌いだったんじゃないのか」
新聞を広げた石原に姫野はお茶を飲みながら語った。
「違いますよ。あの時は北高校を応援していただけですし。それに今回北海を一番苦しめたのは北高校なので、塩川夫妻も体裁を保てた、と言って北海学院を応援してますから」
姫野はそういいながら紙くずをゴミ箱にポイっと投げた。風間はパソコンの前で首をコキコキ鳴らした。
「小花ちゃんの知り合いの美容室のご夫婦も、息子が出るのだからもちろん甲子園に行くんでしょ」
「はい。保護者の方はほとんど行く見たいですよ。それに色々大変なんですって」
小花は窓を磨きながら説明した。
「早く行って応援席に座らないといけないんですって。他の人が座らないように」
「それってどういう意味、小花ちゃん」
松田に小花は語った。
「あのですね。応援席ってテレビに映るじゃないですか。だから卒業生の方が来て、羽目を外したお応援や、例えば飲酒とかされると困るんですって」
「そうか。だから早めに行って親が座って席を埋めるのか」
「そうらしですねよ。私立は先生も必ず行くとか、なんとか」
「確かにね……親も大変ね」
「それよりも、鈴子。お前の泊まった利尻の宿はどれだ」
姫野が呼んだので彼女は彼のデスクのパソコンを一緒に覗いた。
「ええと……これじゃない、あ、戻って」
「これか?」
「あのですね。先輩、くっつき過ぎなんですけど」
「そうか? 自然にこうなってしまうんだな」
頭をくっつけて画面をのぞく二人に、風間は紙飛行機を飛ばした。
「ここよ! このホテルよ」
「そんなに大きな声を出すな……で、ラーメンはどこだ」
「姫野。やけに真剣に調べているじゃねえか」
「よくぞ聞いてくれました」
そういって彼は身体を起して彼女の手を取った。
「最近ススキノに飽きたドクター達が面白い所に連れて行けとうるさかったもんですから、鈴子がリサーチした今度利尻に行ってもらおうと思いましてね」
「そうか。札幌か飛行機で一時間なんでしょう」
「はい。しかも千歳じゃなくて市内の丘珠空港ですもの。あっと言う間ですわ」
「フフフ。我儘ドクターを飛行機にぶち込めばあとは向うで勝手に遊ぶので俺も助かりますし。これは良い企画だ」
手抜き営業を発見した姫野に風間がツッコミを入れた。
「先輩。まずは試しに塩川夫妻に行ってもらうっていうのはどうですか」
「そうだな。口うるさいからな、先発隊にはもってこいだ」
この時、小花は姫野を見つめた。
「姫野さん。そろそろ手を離して下さいませ。お掃除ができないわ」
「いいだろう。もう少しくらい」
べったりの様子に石原が新聞から顔を出した。
「ダメだ!姫野は得意先へ行け!お姉ちゃんはほれ、ぞうきん掛け。風間も黙っていないで仕事しろ!」
「「「アイアイサー!」」」
こうして彼女は楽しい一日をスタートさせた。
そして午前の清掃を終えた小花は5階の部屋でまったりしていた時、吉田が清掃から戻って来た。
「そうだ。小花ちゃんに相談なんだよ」
「なんでしょう?」
「この前、利尻に行った時の京子さんなんだよ」
あの旅行以降、仲良くなった二人は、一緒にパチンコに行ったり仲良くしていたのだった。
「彼女。旦那さんと離婚したいんだってさ」
「まあ。理由はなんですの」
「定年して一日中家にいるからさ、苦痛なんだって」
「やっぱり……」
定年熟練夫婦のあるある問題に対して、あの時の小花は旦那さんに仕事を進めた、と話した。
「奥様は旦那様が一日中いて。うざいんですわ。それに太郎さんに話せばわかるかと思うんですが、マンションの管理人さんはとてもあのご主人にお似合いだと思うんですよ。今人手も足りないし。奥様からご主人に話していただけると良いですわ」
「そうだね。いきなり離婚を切り出すよりもいいよね。わかった!京子さんに話して見るね」
この日はいつものように仕事を終えて帰宅した小花は美容室「ラブリー」の前に通りかかると店先の花にゆめ子が水をあげていた。
「お帰りなさい!今日も暑かったわね」
「はい。ゆめ子さんはいよいよですか」
「そうなの!そうだ。小花ちゃんにお願いがあるの……」
そういって彼女は小花を家に招き入れた。
「うちのお義母さんなんだけどね。一人で留守番になるのよ。年だけど一人で何でもできるから心配ないんだけどさ」
「わかりました。気を付けてみんなで声を掛けますわ」
「……ごめんね。ちょっと人見知りするお義母さんなのよ」
小花はゆめ子の連絡先を知っているので心配しないで、と自宅で歩いて帰ろうとした。
……そうだわ。忘れないうちに今の話を猪熊さんに話しておこうっと!
そんな彼女は猪熊邸のチャイムを鳴らすと、猪熊がガバと玄関を開けた。
「なんだい。英語の勉強中だよ」
「ごめんなさい!伊吹君の日でしたね」
するとリビングから彼の声がした。
「いいんですよ!もう終る所でしたから」
「ごめんね!あの、猪熊さん、龍生君のご両親が応援に行くので、お婆様が一人で留守番になるですって」
「あの物静かな御婆さんか、分かったよ!」
そんな話をしている内に、伊吹が部屋から出て来た。
「本当に終わったんですか? そうだ! 伊吹君、私の作ったカレーを食べてほしいんです。もう二日目で辛いの」
「いいですよ。ではマチコ先生。ありがとうございました」
猪熊はこれから夜の会議があるといい、ドアを締めた。こうして伊吹は小花の自宅でカレーを御馳走になっていた。
「利尻島のラーメンはそんなに美味しかったんですか」
「うん。伊吹君も連れて行ってあげたいわ」
「では受験が終ったら……付き合って下さい」
「いいですわ」
これが男女交際のお付き合いのOKだったら良いのにと思う反面、そんな邪な思いを抱いていることがばれたら仲良くしてもらえないと知っている少年は、今夜も想いを優しく抱き彼女との時間を過ごしていた。
「伊吹君。あのね、聞きたい事があるんだけど」
「なんですか」
「パンデミックってなあに」
「それはですね……」
世界的に流行する感染症の事だと彼は説明した。
「まあ、そうでしたの。私は新しいパンの食べ方かと思っていました。誰にもいわないで良かったわ」
「そう思っても不思議じゃないですよ」
「あとね。パルクールってなあに?」
「映画で観た事ないですか? ビルの屋上とかどんどん走って進む奴です」
「ビルとビルを飛び越えたりする奴ですか? ああ、なるほど……」
感心している彼女に伊吹はなんでそんな事を聞くのか訊ねた。
「姫野さんや風間さんがそういう話をしているんですわ。でも私には何を言っているのか分からなくて。意味を聞くのも悔しいので知っている振りをして帰ってきたんです」
「知らない事は恥ずかしいことじゃないですよ。でも聞きにくい事は僕に言ってくださいね」
「……伊吹君もね」
「え」
彼女はじっと彼の顔を覗き込んだ。
「伊吹君もお母様に話せない事は、私に話しくれなきゃダメよ。私だって話したんですから」
「そう、なりますけど」
すると彼女は彼の手をぎゅうと両手で握った。
「あのね。ニュースにね。いじめが原因で悲しい事件があるでしょう? もし、伊吹君だったらと思うと私、胸が苦しくなるの」
「僕は大丈夫ですよ」
「そういう無理をする子が一番心配なのよ!」
「落ち着いて!」
興奮して手を振りまわす彼女に、彼は思わず微笑んだ。
「笑っていないで約束して伊吹君。学校が嫌だったら遠慮なくお休みしてね。他の学校に行けばいいんですもの。ね?」
「小花さん……」
「不登校を勧めるみたいで悪いお姉さんですけど。私は伊吹君の命の方が大切なの! 勉強ならどこでも、いつだってできるもの。確かに学校は社会生活を学ぶ所だけど、他でも社会勉強はできるわ」
「……どうしてそんな心配をするんですか? 僕はそんなに頼りないかな」
「そんなことないわ。でも」
「だったらそんな顔しないで。小花さん」
彼女の心配はすごく嬉しかったが、そんな気持にさせてしまった事を彼なりに反省した。
「わかりました。これからも僕は何でも話します」
「約束よ。私を頼ってね、あら」
……ピンポーン♪
「これは迎えかしら? はーい」
彼女がモニターを見るとそこにはちょい悪親父が立っていた。
「伊織さん、どうぞ!」
玄関を開けると、彼ははい、と紙袋を差し出した。
「どうも……愛しい伊吹がお世話になっています!オジサンから『島ガール』へお土産です!」
「まあ? 何かしら。開けますわ」
そこにはチーズケーキが入っていた。
「うちの会社の女の子が美味しいって言うんだ。西区にある新しいスイーツの店らしいぜ」
「ありがとうございます」
このやり取りの間に伊吹はカバンを持って玄関にやって来た。
「では。御馳走様でした」
「はい! 気を付けてね」
そして彼らに手を振った彼女は、ナイトランニングをサボって就寝した。
そんな事が合った数日後。夏の甲子園大会は、北海学院が順調に勝ち進んでいた。
「今、何回ですか?」
「9回の表だ。これを抑えれば……あ、打たれた?」
龍生の投げたボールはサードの方に流れて行った。
「……でも取って、セカンドにトス、そして、ファースト……やった!ゲッツーよ!」
「うおおお!!」
夕刻の中央第一営業所で興奮していた小花は、一緒にテレビを見ていた石原とハイタッチしていた。
「よーし! 一緒に行くぞ、せーの……」
「「勝った! 勝った! また勝った!」」
そんな掛け言葉を合わせアハハハと嬉しそうな部長と清掃員を見て、松田は廊下に誰もいないか不安でドアを開けて確認した。
「良かった。……誰もいないか。みんなテレビを観ているのかもね」
戻って来た松田の話なんか聞いていない二人は、準決勝戦の相手をネットで調べていた。
「石原さん。今度も勝てそうですか?」
「どうかな。今までだってみんな北海よりも実力は上なんだぞ」
野球好きな石原の解説では、北海学院と対戦したチームは、皆、初回にエースを投入しリードをしたせいで、これは勝てると思いエースを引っ込めて控えの選手を出しているという。
「でも北海は立ち上がりが悪いだけで、打つんだよな。だから後から出て来たピッチャーをガンガン打って逆転しちまうんだよ。でも、相手は慌ててまたエースを戻しても時すでに遅し、っていうパターンなんだよ」
「素晴らしい勝利の方程式です。それで、龍生君の調子は?」
「いいんじゃねえの。延長戦も一度も無いし。雨で順延した試合もあるし。身体がやすめているだろうな……でも。こいつ全然打てねえな。4番なのに」
不思議顔の石原に小花はふふふと笑った。
「石原さん、これは秘密ですよ。龍生君は全然打てないんですよ。だからハッタリで4番なんです」
「北海の監督もばくちを打つな?……でも、それが合ったってるぞ。今日も敬遠されたしな」
「フルスイングの練習だけしているって話していたんです。練習は裏切らないって言うのは本当なのね」
しかしここで話をしていても興奮が冷めない彼女は早々と退社し、猪熊の家に顔を出した。
「あ、やっと来た。みんなでテレビで観ていて大騒ぎだったのよ」
中島公園1丁目の公民館で集合した町内の人達は、龍生の祖母の大西キヨさんを囲んで応援していたという。
「キヨさんの様子はどうしてた?」
「うん。無口なおばあちゃんだけど、みんなと仲良くしていたよ。ね、小花ちゃん。明後日の試合さ。一緒にみんなと観ようよ。あんたがいないと年寄りだらけ辛気臭くて盛り上がらないんだよ」
「私もそうしたいな……。会社に相談しますね」
こうして小花は翌朝、総務の蘭に全てを正直に相談した。
「話しは分かった! だったらね、夏山にはこういう休暇があるんだよ」
有給休暇の他に、育児休暇、生理休暇、そしてボランティア休暇があると説明した。
「小花ちゃんは今、夏山の準社員なんだ。でもまだ有給がそんなにないのよ」
「そうなんですよ、美紀さん。しかも私は結構休んでいるでしょう」
「うちらがそれを計算しているから知ってるよ。今回はボランティア休暇から半休取ったら? その町内会の人に、何か手伝いをしたって一筆書いてもらえばいいんだよ」
「それなら可能です。それに私、その日は早くきて午前中の掃除だけ済ませておきます。そして午後また帰って来ますので」
アイドル並みに忙しい彼女はそういって夏山の清掃をして行った。
「おはようございます!」
ルンルン気分で中央第一を掃除の掃除を始めた彼女に姫野は眉間にしわを寄せた。
「ご機嫌だな」
「はい!北海学院が勝っているんですもの」
「龍生君か」
「それもありますけど。北海道が強いって、良い気分ですわ」
「お前の周りはトップアスリートだらけだしな」
パソコンに向かっていた姫野の悲しい呟きに彼女は首を傾げた。
「それはご自身の事?」
「俺のどこがトップなんだよ……。特に秀でた物なんかないじゃないか。ん?」
いつ間にか彼女は姫野をじっと見ていた。
「……鈴子は姫野さんが一番、その……なんていうか。素敵だし頭も良いし……。何でもお出来になるので、最高の男性だと思っているんですけど……」
「鈴子……」
そう言って恥ずかしそうにぞうきんを握る彼女を見て彼が先に立ちあがった。
「ストップ!……今朝はいきなり来たな? お二人さん、ストップ!」
姫野との間に滑り込んだ石原の次は彼女が動いた。
「小花ちゃん、こっちよ。今のは刺激が強すぎたわ」
「先輩!もう、しっかりして!心を取り戻して下さいよ!ほら!」
「こうなったら、こちょこちょだ! 風間、やれ!」
夏の札幌、朝の日がこぼれる営業所。気温の暑さに比例するように、笑いの声が響いていた。
完
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