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226 戦いの前
「かっ飛ばせ♪ 龍生! あ……四球ですわ! きゃあ? やった―」
中島公園一丁目の公民館の大広間の和室のテレビでは、地域の人が集まって北海学園の応援をしていた。
「キヨさん! 見ました? 何にもしないで一塁ですわ」
「ああ」
あまり話さないキヨだったが、隣に座った小花には素直に話しをしてくれた。
「あのね、私はあなたの御婆さんと仲良しだったのよ。同じ病院だったの」
「そうですか。今は施設で元気にしてますよ」
「そうなんですって。また、お喋りしたいわ……」
祖母が認知症なのはキヨも知っているようで、この話しはこれで終わった。
そしてこの準決勝は、向うのエースは連日の連投の疲労が抜けず最初から控えの投手が投げていた。
これを見た昔野球をしていたという爺さんの解説によれば、エースの早い球は打てないが、こっちの変化球の方は打てそうだと話した。
「だってよ。変化球は遅いんだ。たぶん、北海はこれを絞って打って行くぞ。あ」
北海にヒットが出たので、みんなで拍手をした。こうして向うのエラーや、龍生の奇跡の犠牲フライで点が入り、まさかまさかで、勝ってしまった。
「きゃ~~~~! やりましたわ! キヨさん」
「勝ったのかい? 本当に?」
驚いているキヨに応援者達は拍手を捧げた。そして家に帰ろうと立ち上がった人と逆らうようにやって来た猪熊はキヨに声を掛けた。
「良かったですね。お孫さんは決勝だ」
すると一緒に応援していた知子もおめでとう、とキヨに挨拶した。
「すごいですね。向うでは息子さん夫婦も喜んでいるんじゃないですか?」
「たぶんね。でも嫁から連絡は無いよ」
「き、きっとあれですよ。ゆめ子さんは興奮して忘れているんですわ」
「そうだろうね。あれは慌てん坊だから」
そう話すキヨがどこか寂しそうに見えたので、小花は彼女に訊ねた。
「私からご連絡しましょうか?」
「いいよ……自分達だけで応援に行くような薄情な息子夫婦だもの」
このセリフに三人は凍りついた。しかし、猪熊は勇気を持って口を開いた。
「……あの、大西さん……もしかして、甲子園に行きたかったんですか?」
「うん。でも息子も嫁も最初から私は留守番すると思いこんで誘いもしなかったから」
そう強がりを話すキヨに知子は首を振った。
「そんな? あの、ほら、きっと甲子園は暑いから、二人ともキヨさんの身体を心配したんですよ」
「いいや。邪魔だから誘わなかったんだ。それに本当にそうだし、さ」
そう言って寂しそうに立ち上がったキヨの腕を小花はむんずと掴んだ。
「……キヨさん。それではいけないわ。思った事を話して下さらないと、周りの人はわからないですもの」
「小花ちゃん?」
真剣な彼女の声に、猪熊と知子もビビって彼女を見つめていた。
「私のお婆様は話しが出来る状態でないことはご存知ですわね。私はキヨさんにはちゃんとして欲しい事は言って欲しいのです。キヨさんは甲子園に応援に行きたいかったんですか?」
「ああ……。孫がこんなに頑張っているんだもの。私だって応援に行きたいよ。でも今更遅いだろう」
「そんな事は無いさ! 金があるなら行けるよ。ねえ、知子?」
「猪熊さん……お金があっても。今から飛行機やホテルは無理でしょう」
「金ならあるよ。誰にも言ってないけど、タンスに、むぐぐ?」
「それは言ってなりませんわ!」
お金の有りかを説明しようとするキヨの口を小花は慌てて塞いだ。
「そ、そうだね」
「でもさ。キヨさんだけではどうかな……。向うに行けば息子さん夫婦がいても、そこまで行くのが大変ですよ」
「私がいければ良いんだけど……小花ちゃんはどう?旅費はそうだな、みんなのカンパで」
するとキヨは首を横に振った。
「一緒に行ってくれるなら私が出すに決まっているでしょう」
「わかりました!とにかく私の知り合いの旅行会社に聞いてみます」
こうして小花は仕事のことなんかそっちのけで、知り合いに電話を掛けた。
「もしもし。小花です。お久しぶりです。あの、今いいですか? 急なんですけど、今、甲子園をしているじゃないですか? 私、高齢の女性と一緒に決勝戦を観に行きたいんです。はい、予算は一応大丈夫です」
しばらく待つと旅行会社は、今夜の便と帰りの便と、ホテルを用意してくれた。彼女はこの費用をキヨに訊ねるとOKと頷いた。こうして小花は、龍生の祖母を伴い、大阪に行く事になった。
「旅行会社には知子さんが行って支払いしてくれますか?私、急ぎで会社に戻らないと」
「分かった! 早い会社に行きなさい」
「あとはこっちでうまく支度するから! さ、キヨさん」
非常に慌ただしく決まった日程に驚く暇も無く、彼女は夏山愛生堂に飛び込んで行った。
「おっと?」
「すみません! あ。社長」
「どうしたの? ものすごく慌てて」
ぶつかってしまった慎也に詫びた彼女は、これから掃除をするー、と言って階段を駆け上って行った。
「彼女、忙しそうですね。また何かするんでしょうか?」
彼女とすれ違った秘書の野口は慎也にそう微笑んだ。
「たぶんな。野口。あのさ、小花さんって俺よりも忙しいと思わない?」
「そうだと私も思います。さあ、我々も負けずに参りましょうか」
そんな話をされているのも知らずに、小花は急ピッチで午後の掃除を始めた。そして明日も休暇を取ると吉田と総務の二人に宣言をして、出来るだけの掃除をして夏山を後にした。
夕刻。中島公園一丁目に戻った小花は急ぎで一泊旅行の用意をし、ラブリー美容室に向かった。そこでは猪熊を始め地域の人が集まっていた。
「来たわね。それではキヨさん。気を付けて行ってくださいね」
「小花ちゃんも。気を付けてね」
「はい! では行きましょう」
二人は知子に見送られて猪熊が運転する車でJR札幌駅まで送ってもらい、そこからエアポートライナーという急行列車で新千歳空港に行った。
ここで夕食代わりの蟹弁当を買い込んだ小花はこれを持って飛行機に乗った。飛行機の中でゆっくり食べた二人は、夜、猛暑の大阪に到着した。
「いや……暑いとは思っていたけど。まさかここまでとは」
「これは本当に暑いですよ。あ、修司さんだ!修司さーん!」
空港まで高齢の母を迎えに来た50代の息子は、母を見るなりこら、と怒った。
「母さん。ダメじゃないか、我儘を言って迷惑かけて」
「……」
「修司さん? いけませんわ。キヨさんは、本当は一緒に行こうって誘って欲しかったんですよ」
「そうなのかい。じゃ、なんで俺に云わなかったんだよ」
「だって、お前。ゆめ子さんと行くのを楽しみにしていたみたいだから。母さんも付いて行ったら邪魔かと思ったんだよ」
「何が邪魔だよ? こんな風に小花さんに迷惑かけた方が困るじゃないか」
「……修司さん。そんなにお母様を責めないで下さいませ。それにお母様も最初はそんなに気持ちが無かったかもしれませんが、北海がここまで勝って、しかも龍生君がピッチャーなんですもの。甲子園で応援したくなるのは当然ですわ」
「そうだよ。あんた良く分かってるね」
「母さん?! 本当にごめんね。小花ちゃん」
そんな気遣いは無用だから早くホテルに移動しようと三人は電車に乗った。
選手達と保護者は違うホテルであり、小花とキヨのホテルは、ちょうど修司達のホテルの近くだった。
そして小花達のホテルのロビーに入った時、待っていたゆめ子は立ち上がった。
「お義母さん? ごめんなさい……私、自分の事しか考えていなかったわ」
嫁のゆめ子はそういってハンカチで目頭を押さえた。
「やっとわかったかい」
「ウウウ……てっきりいつものように留守番をしているものだと思い込んでいたの。でも今回は違うものね。龍ちゃんの晴れ舞台だもの」
自分の事で精いっぱいだった嫁の涙に、懐の広い姑は肩を落とした。
「私も悪かったよ。早いうちに素直に行きたいって言えば良かったんだ」
「お義母さん」
「もういいよ。私は来たんだから。今夜はこのホテルで小花ちゃんと寝るから。明日、迎えに来ておくれ」
「はい。分かりました。小花ちゃん、ありがとうね」
その間、小花と修司で明日の打ち合わせを済ませておいたので、今夜はここで解散となった。
そしてツインの部屋でキヨを休ませた小花は、姫野に連絡するのをすっかり忘れていたのでメールを送った。
『龍生君のお婆様の付き添いで、甲子園に来てしまいました』
『今、大阪か?』
『そうです。暑いです。そっちは?』
『寒い。君がいないから』
またまたこんな甘いメッセージを送って来た彼に、彼女は頬を染めていた。
『明日の決勝戦を応援したら帰ります』
『俺も塩川夫妻と観戦することになった。熱中症に気を付けろよ』
『はい。おやすみなさい』
『おやすみ、鈴子』
こんなメッセージを抱いて彼女もベッドで眠った。
そしていよいよ決勝戦の朝。甲子園球場に入る前から戦いは始まっていた。
「修司さん。朝からこんなに人がいるんですか?」
人で埋め尽くされた球場に小花は驚きというか、こんなに入れるわけ無いと思っていた。
「そうだね。当日券が買えるかもしれないと来る人がいるんだよ。あ、母さん、ゆっくりでいいからね」
北海学院の応援の保護者達は悪さをする者を寄せ付けないために、早い時刻から甲子園入りし、身を呈して席を陣取り、学校の誇りと球児の名誉を守っていた。そんなゆめ子達もまだ試合前なのに席に座っていた。
「暑いわ……お義母さん、はい、水」
「はいよ。小花ちゃんもね」
「はい! しかし……マウンドは何度かしら」
朝から40度近い兵庫の夏。ギラギラ太陽は容赦なく応援席の大人達を襲っていた。
「日陰がないのよね……私、龍ちゃんよりも外にいる時間が長いと思うわ」
「日傘をさす訳には行かないし」
「あ? 私、良いのがあります」
そういって小花はスプレーを取り出した。
「私の勤務先でお薦めの商品です。冷感スプレーですよ、それ」
シャーーーっと小花にこれを掛けられた二人の腕はひんやりした。
「すごい? これは使えるわ」
甲子園入りして真っ黒に日焼けしていたゆめ子は感心していた。
「キヨさん。その夏山愛生堂オリジナルのタオルはいかがですか」
「いい塩梅だよ」
首の部分に保冷剤を入れるポケットがありタオルはUV加工されておりふわふわの質感でありながら汗を素早く吸収し、それをあっという間に乾燥させる高機能の優れた商品であった。
「いいな。二人だけ」
自分とキヨの分しか用意していなかったので、首に豆絞りを巻いていたゆめ子は羨ましそうな目で小花の白いタオルを見ていた。
「ところでママ。メイクは良いのかい」
「うん。だってさ。汗で落ちるんだもん。ドーランとか塗らないと無理よ」
「でもね、ゆめ子さん。あんたテレビに映るんじゃないのかい? 投手の家族とかで」
「……もう諦めたわ。それに修ちゃんがインタビュー受けてよ。その方がいいって龍ちゃんが、そうだ!? 今朝まだメールをチェックしてなかった!」
慌てん坊のゆめ子はバックからスマホを取り出した。
「夕べね。お義母さんと小花ちゃんと撮った写真があるでしょう? あの画像を送ったのよ、返事は……『来た―!』だって。何これ? どういう意味?」
これを見た隣の席の修司はフフフと笑った。
「嬉しいってことだよ!ほら、ママ。応援の練習が始まるよ」
こうして試合前の時間、保護者は応援の練習をしていたのだった。
その頃、札幌ではどの会社も店も仕事にならないので、誰もがじっとテレビを見ていた。
『こちら北海学院の応援席です! 白一色の服で見事に埋め尽くされています……』
「すごい動員だね、姫野君。こんなに応援の親が行ったのかい」
「それだけじゃなくて関西地区にいる道民が集結しているみたいですよ」
「あ、あれ大西さんよ』
塩川夫妻と姫野と石原は、休診日の塩川夫妻に誘われて、スポーツカフェで観戦していた。
『放送席! それでは北海学院の投手である大西龍生選手のご両親にインタビューしたいと思います。お母様。今の心境は?』
『へ。私、今、テレビに映っているんですか?』
「みて! ゆめ子さんよ。日焼けして真っ黒ね」
「次はご主人か。これも真っ黒だな」
『……そして隣はお婆様です。いかがですか? お孫さんの活躍について』
『私に聞かれても分かりませんね』
マイクに向かって真顔で話す老婆のコメントは、テレビの前の観客の笑いを取った。
「あ。塩川先生! 鈴子がいました……しかし、このアングルおかしくないですか?」
取材のアナウンサーは祖母にマイクを向けているのに、カメラのピントは祖母の隣に座る彼女にばっちり合わせられていた。
『では最後に……こちらのお嬢さんにお訊ねします。今日の試合に向けて一言!』
『はい! お互い全ての力を出し切って、悔いの無い試合をして欲しいですわ。私達も精いっぱい応援させていただきます!! テレビの前の方も、声援お願いします!』
小花の言葉に北海学院の応援席から拍手が起こった。そんな中、選手がマウンドに現れた。
「お義母さん! あれが龍ちゃんよ! 龍ちゃーん!」
「そんな声を出したらあの子が恥ずかしいだろう?」
「ママは存在自体が恥ずかしいんだよ。黙っていてくれよ」
「ひどいわ? 私は応援しているだけなのに」
「……でも、ほら、ゆめ子さん。気が付いたみたいですわ」
キャッチボールをしていた龍生は母に気が付いたようで、観客席の下まで走って来た。
「婆ちゃんも来てくれたんだね! 小花さんも」
「龍君。頑張ってね」
「応援は任せてくださいね!」
眩しい太陽に負けないくらい光っている美しい彼女が振る手にうんと力強く頷いた彼は、仲間の所に戻った。キャッチャーはミットで口元を隠しながら彼に訊ねた。
「おい、龍。あれ、誰なんだよ」
「近所のお姉さん」
「マジで? 超美人じゃん」
「そうなんだよ……」
しかも札幌から駆け付けてくれた彼女の思いに、彼は純粋に感激していた。
「……龍! 集合だ」
「おう!」
夏の甲子園球場。選ばれし球児達の熱い戦いは、これから始まろうとしていた。
つづく。
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