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228 夏のパレード
「今朝の道新も北海学院ばっかりだ」
「もう二日経ったのに? すごい人気ですね」
東の太陽が射す夏山本社ビル、中央第一営業所。部長の石原の背後から新聞を覗き込んだ松田は彼にはい、と麦茶を出した。
「やけに優しいな……お前何か悪い事したのか?」
「その言葉、今すぐ撤回して下さい。私は奥様からお通じのためにどんどん水分を摂らせてほしいお願いされているだけです」
「家でも飲まされるのに? まあ、尻の為に仕方ないか」
痔を患った事のある石原は一日2リットルが目標だったので、グラスを煽った。
「ところで姫野は?」
「北海学院から夏山愛生堂オリジナルタオルの大量注文を受けたじゃないですか? その件で、製造元の卸センター『タオルの今西』さんに、交渉に行きました」
「松田。このタオルの売り上げは姫野の営業ポイントになるのか?」
「……そうなるようにしました。調べたら昔は北海学院の保健室にうちで薬を持って行っていた時期があったんですよ。でもその得意先コードは豊平営業所になっていたんですが、さっき桐生所長に確認したら忙しくてそんな事できない、って言うことでしたので。このコードを姫野係長に移動しました」
松田の隠密行動を石原はいいぞと指を鳴らした。
「よし! じゃあ売り上げは姫野のポイントになるんだな」
「はい。今回はほとんど利益がありませんが、これを機会に運動部の選手のサプリメントやプロテイン、湿布やテーピングなどを売り込む予定で、そのダンボールにサンプルを揃えておきました」
「待て。これは保健室なんだろう……他にも生理痛の鎮痛剤とか、歯痛の鎮痛剤も入れておけ!」
「やけに詳しいですね」
驚く松田に石原は待てちょうだいと手を挙げた。
「待て待て? 俺を誰だと思っているんだ? そして風間は?」
グラスを自分で流しまで片付けた石原は、サンプルの入ったキャビネットを物色している松田に訊ねた。
「実家の薬局に、北海学院の部活動の担当者から大量注文が入ったので、在庫を調べに行きました」
「……薬局の商品は風間薬局でいいか。しかしなんでまたこんな急に入ったんだろうな?」
「それはやっぱり」
話し終わる前に、彼女がやって来た。
「おはようございます!石原さん、申し訳ないんですけど、ドアを押さえて」
「あいよ! てっいうか。それ、道具を持ちすぎだろうよ」
バケツにホウキ、モップにぞうきんとスプレー洗剤とゴミ袋を持った彼女は、ゆっくり中央第一営業所に入って来た。
「私も後悔していますわ……でもやるしかないです」
そういって彼女は道具を置いて掃除を始めた。
「松田さん。後で甲子園のお土産をお持ちしますわ。でも今はまず掃除をしないと」
「俺、テレビで甲子園見ていたぞ!お姉ちゃん、結構映っていたぞ」
「そのようですね。でも私は見ていないのでチンプンカンプンなんですの」
「それもそうね……それにしても。日焼けしてないのね」
「UV対策ばっちりしましたわ。あ、石原さん、足元を掃除させて下さい」
「ほいきた!なあ、この優勝パレードが未定、ってあるけど、なんでやらないんだ」
新聞を読みながら両足を上げ腹筋をプルプルさせていた石原に小花は掃除をしながら答えた。
「……ああ。それは、やはりやる事になりましたよ」
「へ? なんでお姉ちゃんが知ってんだい?」
「勤務先のワールドで警備をする事になったんです」
小花は慎也のしつこいラブコールにより今夏は夏山愛生堂の準社員扱いだか、両会社の取り決めで、多忙時において小花はワールドの仕事をしても良い事になっていた。
「でもよ。ここに高校野球連盟のルールで禁止になっているってあるぞ」
選手達はまだ高校生であるし、それにいちいちこんな事をしたら他の競技の人もやらないと可哀想じゃないか、と思うのが人の常なのだと石原もある程度は理解しているつもりではあった。
「はい。でも選挙が近い市長さんが市民栄誉賞を北海ナインにあげる事にしたんですって。だから、市役所で表彰状をもらった後、選手達はその足で北海道庁に報告に行くことにしたんです」
「それをパレードというんじゃねえか?」
「部長! 別に誰が何をしても部長になんか関係なんだから良いじゃないですか」
「私もそう思います。それで私、パレード、じゃなかった? 市役所から道庁までの移動の時の警備をしなくちゃいけなくなったんです」
「お姉ちゃんが? 何でそんな事を?」
「仕事ですもの」
彼女は、自分は選手と一緒に軽く併走すると説明した。
「長い間練り歩くと警察がうるさいみたいで。出来るだけ早く駆け抜ける予定なんです」
「そうか。お姉ちゃんはマラソン得意だもんな」
「はい。会社では健脚組です。だってうちのガードマンはじっと立っているのが得意なので、動きのあるものは弱いんです。明日の午前11時がスタートだから、今日の内によーくお掃除したいのです。では!」
そういって彼女は営業所を飛び出して行った。
「おっと! 危ないぞ鈴子」
「姫野さん ?ごめんなさい」
廊下で小花とぶつかった姫野は彼女をひしと抱きしめた。
「ダメじゃないか。前をみないで飛び出して」
「……ごめんなさい」
そういって彼は彼女を抱き起した。
「ケガをしたら痛いんだぞ」
「許して下さいませ。でも姫野さんこそ大丈夫? 鈴子とぶつかって痛くなかった?」
愛しい彼女の上目遣いに姫野の胸はキュンした。
「痛かったぞ、ええとな、この辺が……」
そんな事をいって彼女を抱きしめたいだけの姫野の肩を誰かがむんずとつかんだ。
「先輩。わいせつ容疑で逮捕します」
「何を言う。これは恋人同士の戯れだ」
「つべこべ言うな! こっちに来い!! ほら、早く! 歩けぇ!!」
後輩の風間に叱られた姫野は彼女と引き裂かれ中央第一営業所に戻って行った。
こうしてこの日、掃除を終えた彼女は翌朝、北海のパレードの警備に当たっていた。
「こちら、本丸どうぞ」
『こちら大通り異常なし、どうぞ!』
本丸とは球児を示す隠語でやりとりした彼女の背後ではナイン達がはしゃいでいた。
「小花さん。俺達、ゴミを拾いました」
「まあ? 偉いですわ……あとで学院長にみんなの活動をお手紙に書いて送りますね」
「そんなことよりも小花さん。本当に僕らに併走する気ですか?」
身が細い小花の運動神経の良さを信じられないゴリラ球児達はそう言って何度も目を瞬かせていた。
「もちろんよ龍生君。もうすぐスタートよ。並んで」
「はい! みんな並べ! 小花さんに迷惑かけるじゃねえぞ」
「ええと、龍生君。約束は憶えていますね。手を振らない。物を受け取らない」
「はい! でも花束もダメなんですか?」
ガードマンの格好の小花は周囲を警戒した。
「そうなんです。中に現金を入れたりする年寄りがいるんですよ。嬉しいけど困るでしょ? それに一人に集中して何ももらえない選手がいたら可哀想だから、と聞いています。それなので私が代わりに受け取りますわ」
そして市役所にいた彼らは予定の時刻通りに市長から賞状を受け取り写真撮影をしていた。
『テレビの前のみなさまこんにちは! 私は札幌テレビの南郷ひろ美です。今、私は札幌市役所に前のいるのですが、ご覧ください! 沿道には全道から集まった北海ナインのファンで埋め尽くされております! あ……でてきました! キャプテンの鈴木君が深紅の優勝旗を掲げています』
車道を歩くために警察が交通整理をし、沿道の人はワールドで警備をしていた。その頃、役所から出て来た彼らの責任者は移動開始の合図を出した。
「参りますよ、龍生君」
「はい!」
先頭の警備員の指示の元、彼らは歩みを早めに進み始めた。小花以外のガードマンランナーは、北海ナインを囲むように供に走りだした。
彼らは沿道のファンには手を振るなと言われているので、ただまっすぐ前を見ていた。
「キャーーーー!龍生君!」
「鈴木君! これ受け取って」
沿道の女子が何かプレゼントを渡そうとしていたが、横を併走していた小花はこれを断りながら走った。
「龍君! こっち見て」
「龍生君! こっち! こっち」
写真が欲しいファンの誘いだったが、真夏の太陽と写真のフラッシュで彼らはクラクラしそうになってきた。そんな時、信号待ちで一時歩みが止まった。
「龍君!」
「鈴木君、きゃ~~~!」
ユニフォーム姿の彼に触れようとガードマンを押し避け腕を伸ばしてきた女子ファンがあまりにも熱狂で怖かった龍生は思わず小花の背に隠れた。
「……大丈夫。私が付いていますわ」
「なんかあの人、俺の顔入りのTシャツ着てるし」
ミケポチャの熱い想いを怖がる彼に小花は優しく呟いた。
「こんな程度でビビっていてはダメよ。まだまだこれからですわ。さ。スタートよ」
それ!と一同はまた小走りを始めた。沿道には爽やかファンも多くいたが、なぜか龍生のファンだけは熱狂的な中年女性が多く彼を怖がらせていた。
「龍くーん! 私の作ったお弁当食べて!」
「ええ?」
「すみません! 物は受け取れないのです」
「何よあんた!? 私の龍君にそんなに近寄るんじゃないわよ!」
そんな女性を無視して進む一行だったが、ファンの熱狂ぶりに龍生はだんだん怖くなってきた。
「大丈夫よ。もう道庁だもの」
「小花さん……そばにいてください」
「まあ? 日本一のピッチャーなのにおかしいわ? ウフフ」
そんな龍生にチームメイトは吠えた。
「龍生! ビビってんじゃねーぞ。俺なんかオジサンに投げキッスされたし」
「ウフフフ」
「……俺、何かさ? あんまり手を振ってくれるからつい返したらさ。『お前じゃない!』って怒鳴られたんだよ!ひどくない?」
「フフフ。みなさん必死なんですよ。ほら、道庁よ」
「やった……」
この様子を南郷ひろみが解説した。
『ここで道庁にナインは道庁に着きました!ああ、笑顔ですね。そして出迎えた道庁の職員と一緒に中に入って行きました』
ここで警備が終った小花は今度は沿道の人が帰るのでその誘導係りになった。一緒に走ったワールドの警備の山口と長江と供に駅の方へ歩いていた。
「しかし、怖かったな……あの弁当女」
「俺も怖かったっす。知らない人が作ったものは食べられないですよ」
山口と長江とぼやきに小花も賛同した。
「私もそう思います。でも本当にお好きなんでしょうね」
スポーツ飲料を飲みながら三人は頷いていた。
「そうだ。あの水着のファンどうした?」
「存じませんわ」
「ナインに見て欲しくてビキニの水着で立っていた女の子達だろう? 警察に注意されていました」
「お二人ともよく見てお出でですわ……」
軽蔑の眼差しの小花を知った長江は慌てた。
「そんな目で見ないでよ? だってさ。あれはさすがに誰でも見るよ」
「ウフフフ。冗談ですわ、あ、あそこの警備ですね」
ワールドの仲間がマイクを持って誘導していた。
「あ。小花ちゃん! 悪いけど、代わってくれないかな? 喉が痛くて」
「いいですわ。『立ち止まらないで進んで下さい』って言うんですよね」
ここで小花はマイクを持って選挙の立候補者のようにアナウンスを始めた。
『皆さま。本日の北海ナインのパレード、じゃなかった?イベントは終了しました。皆さま、ここに立ち止まらずに、ゆっくりとお進みくださいませ……』
滑らかに誘導する小花の声に、ガードマン仲間の山口と長江も安心して誘導していた。
『……前の人を押さないで下さい。周りの人を自分の愛する人だと思って、優しい気持ちで接して下さいませ。リュックを背負っている方は、知らずに背後の人の迷惑になっている事はあります。心当たりのある人は、バックの胸に抱くように前で持つを事をお勧めします……』
この話しを聞いた男性がリュックの持ち方を道の脇で直していたので、山口はそんな彼を背で守っていた。
『押さずにゆっくりとお進み下さい……落とし物にもご注意ください。スマホを落とした時はむやみにかけるとバッテリーが無くなりますので、速やかに携帯電話会社に連絡し、在り処を特定してもらう事をお勧めします……』
そんな事を言われたら誰もが不安になるので、歩いている人はみんな自分のスマホを確認していた。
『……熱中症にもご注意ください。最初に指の動きが鈍くなってきます。それからあっと言う間に吐き気を催し目の前が真っ暗になります。そうなる前に水分を取ってください』
そんな恐ろしい事を言われたら誰もが不安になるので、ガードマンの山口と長江まで水分を摂っていた。
『以上の事に注意し、恋人と家族をみんなの力で守りましょう。北海ナインのイベントは終了です。事故のないようにお家に帰りましょう……』
人が少なくなったので、小花のDJも終了になった。三人は上からの指示でこの場を移動し、今日やってきたバスに戻って来た。
「疲れた!ああ、でもそういえば小花ちゃんって甲子園で応援していたんだって?」
「そうです。暑かったですわ」
「テレビに映ってたじゃないですか? 伊達社長が言っていましたよ」
そんな長江の話に小花は汗を拭きながらびっくりしていた。
「ええ? 伊達さんにばれてましたか?どうしよう……有給でしたけど。休んでばかりって怒られるわ」
「自分じゃないって言い張るしかないな」
「それもそうね。名前は出てないんだし」
そこへ噂の女社長がやって来た。現場にいた伊達は白いスーツで決めていた。
「おつかれ! 警察からも事故が無かったって褒められたよ。あ。小花」
「は、はい」
怒られる覚悟の彼女は、きりっと姿勢を正した。
「さっき、北海ナインの監督に感謝されたよ。お前は甲子園で応援したんだってね」
「は……はい」
誤魔化せなかった小花に、山口と長江は思わず同情し下を向いた。
「ピッチャーの御婆さんの介護の付き添いをしたんだろう? そのピッチャーの子がおかげで奮闘したって監督はお前に感謝していたぞ。よくやった!」
「はい!」
「今日はもうこれでいい。夏山さんに……行きなさい」
「はい! では山口さん、長江さん。お疲れさまでした」
上着を脱いで颯爽と去って行った彼女を見て伊達は呟いた。
「……小花はどこに行ってもああやって頑張っているんだろうね」
語る伊達に山口と長江も続いた。
「そうでしょうね。北海ナインも彼女と写真を撮って欲しくてお願いしていましたよ」
「それに俺達の仕事を見たサードの子が、高校を卒業したらワールドに就職したいって言っていました」
伊達はにっこり笑った。
「それは最高だね。後で高校に求人を出しておくよ」
今回のイベントの警備は札幌市から費用がでたのでほくほくだった伊達社長は、さらに素晴らしい人材確保の予感に大空を見上げていた。
その頃。小花は夏山に戻ってきていた。
「汗でびっしょりですわ」
「宿直室の風呂を掃除するついでに自分もシャワーを浴びなさいよ」
「……そうさせていただきますわ」
吉田の言葉に甘えて着替えを持った小花が一階に行くとそこで渡に出くわした。
「お嬢……もしや、風呂ですか?」
「掃除ついでに拝借ですわ」
小花の様子を見た渡は、口を真一文字に結び頷いた。
「分かりました。私はここで見張っていますので安心してお入りください」
覗きをする不届き者が絶対いるので、渡はここに仕事を持ちこんで見張っていた。その時、宿直室をノックする音がした。
「いませんよ」
「……いるじゃないか。渡さんか」
ドアを開けて入って来たのは慎也だった。
「誰か風呂を使っているのかな。俺、ここにスマホを忘れたみたいでさ、ない?」
「社長……しっかりして下さい。自分はこうやっていつも首に下げて忘れないようにしているんですぞ」
「重いだろうそれ? いいから開けるぞ」
そうって脱衣所の扉に手を掛けた慎也を渡は羽交いを締めした。
「うわ」
「やめろぉ! 今はお嬢が入浴中なんですぞ!」
「小花さんが?」
するとこの騒ぎで小花が声をかけて来た。
「誰ですか?」
「俺だよー」
「お嬢! 渡がここは死守を」
しかし小花は声をかけてきた。
「社長ですか。もしかして忘れ物……あった! スマホですね」
「そう! 今すぐ欲しいんだ」
「了解ですわ」
しばらくすると脱衣所の曇りガラスの向うに彼女の影が見えた。
「……社長。ここにスマホを置きましたので、10数えたらここを開けて下さいね」
「わかった! 1234」
「早い早い早い! 社長、それは音速です」
「訳わかなんないし? じゃあ渡さんが数えてよ」
「いーち、にーい。さーん、しぃーい……」
「ああ、もう! 俺急いでいるんだよ? もう開けるよ、小花さん……」
渡が目を瞑って数えている間に慎也はがらと開けスマホを取り返した。
「じゅーいち、じゅうに、じゅうさん……」
「じゃ! 俺行くね。小花さん。ありがとう」
「どう致しましてー」
兄の気配が消えた脱衣所にホッとした彼女は、安心してシャワーを浴びていた。札幌駅の東の卸センター。そこにある医薬品卸会社にいる清掃員は今夜の宿直当番のために、風呂場をピカピカに掃除していた。
夏の昼下りの会社には、今日も愛が溢れていた。
完
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