229 恋ゴルフ 15

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229 恋ゴルフ 15

「菜々子先生。お願いがあるんです」 「どうしたの?向井君」  夜のゴルフ練習場で練習していた向井は、菜々子をじっと見つめた。 「たまには僕のお願いも聞いてほしいんです!」 「き、聞いているつもりだけど」  たじろぐ菜々子に向井は迫った。 「嘘です!いつも慎也君のお願いばかりじゃないですか? 僕だって先生の弟子なんですよ」 「そんなつもりはないけれど……確かにそうかも? すみません」  年下の向井に思わず小さくなった菜々子は、打席の脇の椅子に座った。そんな菜々子に向井はため息をついた。 「そんなに難しいことじゃないんですけど。僕のスーツなんですよ」 「スーツ? ああ、仕事で着るものね」  彼の話しによると、今よりももっと上等な物を着るように上司に言われたという。 「僕は今まではデパートで作っていたんですけど。それじゃダメだって言われてしまって、困ってます」 「確かにね。向井君の体型だとセミオーダーでしょう? 普通の仕事はそれでいいかもしれないけれど」   向井は高級外車を扱う仕事である。このため着る物も合わせないといけないのだと年上の菜々子は思った。 「だったら作れば?」 「でも、あの僕、ブランド品とかは高いのあんまりわからないし」  汗を拭く向井を菜々子はじっと見た。 「大丈夫。二万円からできるお店を知っているの。その代わり時間が掛かるけど……ん? どうしたの」  うるうるした目で彼女を見つめている向井は、そっとつぶやいた。 「いえ。菜々子さん。僕の事も気にしてくれているだなって。感動して」  その時、彼の背をとんと叩いた男が現れた。 「よ! 何話しているんだよ。だめだぞ、菜々子先生を一人占めしちゃ」  野村はそう言って菜々子にウィンクをした。向井は首を振った。 「別に? ちょっと世間話をしていただけです」 「スーツ作るんだろう? 俺も行く!」 「聞いていたんじゃないですか……もう」 向井は呆れ顔で野村はドヤ顔である。菜々子はそんな二人に手を叩いた。 「ほら、二人とも練習よ! ちゃんと練習しないと連れて行ってあげないわよ」  はーいと返事をした年下の男の子達にゴルフの指導をした菜々子は、受付奥にやってきた。そしてスマホを取り出した。 「もしもし、あ、菜々子です。スーツを作りたいって子がいるんだけど、連れて行ってもいい? 都合の悪い日は……ああ、分かった、決まったらメールでで送るね」  この後、向井と野村の予定を聞き、菜々子は約束の日を決定した。  そして当日。菜々子の指定した店に男達はやってきた。 「『テーラー大西』……ここだ」 「あ。こっちよ。紹介するわ……」  店から出てきた菜々子は彼らを店内に案内した。 「こちらは私の姉なの。三絵子姉さん。こちらが向井君。向こうが野村君、そして……え? 慎也君?」  呼んでいない慎也がいたので、菜々子はびっくりした。慎也は悲しみの目で彼女を見つめた。 「ひどいよ菜々子さん。俺だけ除け者なんてさ」 「すみません菜々子先生。僕、嬉しくて自慢したら慎也君も作るって……」  向井の説明を聞いた菜々子は俯いていた慎也に思わず駆け寄った。 「ごめんなさい! そんなつもりじゃなかったのよ」 「除け者……俺だけ……」 「ごめんって! それに慎也君はたくさん服を持っているでしょう」  すると慎也は顔を上げた。 「そんなことないよ。全部、ボロボロだよ? それに俺だって菜々子さんにスーツ選んでもらいたいのに……」  そういって背を向けた彼に、菜々子は必死に謝った。 「だって慎也君は最近忙しかったじゃないの。ね。だから仲間外れにした訳じゃないのよ……お願い、機嫌直して?」 「……菜々子さん、本当に反省してる?」 「うん。反省してる。ごめん!」  すると慎也はくるりと振り向き、がばと菜々子を抱きしめた。 「……もう秘密は無しだよ。わかったかい?」 「はい……」  こんなラブラブな様子に菜々子の姉は、首を傾げた。 「すみません。私の妹の彼氏はあの子でいいのね」 「違います! 僕です」 「いいえ。俺です!」  向井と野村の挙手をみた三絵子は、腰に手を当てた。 「菜々子! あんた、彼氏は何人なのよ?」  すると慎也が手を挙げた。 「お姉さん。俺が本命です。 さ、菜々子さん、始めようか?」 「姉さん……後はお任せします……」  すっかり翻弄された菜々子は、店内の椅子に崩れるように座った。姉は任せせてとメジャーを手にした。 「よーし。背の高い君からよ、おおっと? ずいぶん体格がいいのね」 「あざーす!」  元サッカー選手の野村の採寸をしていた姉の三絵子は、野村の胸板に溜息を付きながらメジャーで測って行った。それを尻目に慎也は菜々子に訊ねた。 「あのさ。菜々子さんて何人姉妹なの」  布を選んでいた慎也に、菜々子は顔を上げた。 「……七人よ。私は末子なの」 「七女ですか? すごい」 驚く向井に、菜々子は目を伏せた。 「すごいわよ。姉が六人いるって。想像できないでしょうね」 「三絵子さんはもしかして三番目ですか?」 「そうよ……はい、野村君の採寸は終り。お次は向井君ね」  この間に、菜々子も布を選んでいた。 「野村君は今持っているスーツと違うデザインがいいわよ。自分でも見てちょうだい」 「分かんねえな……」  ぶつぶつ言いながら布を見ている野村の奥で、慎也は真剣に選んでいた。 「菜々子さん。俺、これなんかどうかな」 「そうね……身体に当ててみようか……顔がすっきりして見えるわね」 「菜々子先生! 俺も見て下さいよ」 「はいはい」  出番の多い妹を見た姉は、向井に訊ねた。 「あのね。菜々子が男の子を連れてくるのなんて初めてだから、私ドキドキしているのよ」 「僕もドキドキしていますもの。しかし、たくさん測るんですね」  すると姉は菜々子によく似た笑みを見せた。 「まあね……完成を楽しみにしてちょうだい。さ、最後に、そこの自称彼氏の君!」 「はい!お姉さん、宜しくお願いしまーす」  採寸されている慎也を背にした時、向井は大量のスーツの生地に溜息をついた。 「菜々子先生。僕もここから選ぶんですか?」 「ううん。向井君は仕事で使うんだから、プロに選んでもらうわ。もうすぐ来るから……あ、こんにちは」 「はいはい、菜々子ちゃん、久しぶりだね……」  店の奥からエプロンを付けた高齢の女性が現れた。白髪の彼女は年齢の皺は隠せないが、背筋がピシッとした女性である。 「みんなに紹介するわ。ここのおかあさんよ。姉の義理の母なの」 「まあまあ、イケメンばっかりだべさ。どの人が彼氏なの?」  自分です!という手を挙げる三人男に微笑んだ大西夫人は、まず野村の顔をじっと見た。 「あんたは……人望のある懐のでかい男だね……でも落ち着きがまるで無い、か。お前さんには何がいいかな」  まるで魔法の杖を選ぶかのように、夫人は生地を選び出した。 「まだ若いしね、これで……いいか」 「野村君。これを当ててみよう、鏡はこっち!」  鏡の前で菜々子に布を体に当ててもらった野村は、自身の姿を見つめた。 「……濃紺か。持ってない色だし。似合っていますか、菜々子さん?」 「うん。とっても素敵よ。大人っぽいし、スタイルが良く見えてかっこいいわ」 「俺、これにします!」  その間、大西夫人は向井の生地を選んでいた。 「童顔の小者か……これは普通のスーツだと負けてしまうけどね……本当はお前さんのような男が一番スーツが似合うんだよ……ほれ。これはどうかな」 「菜々子さん。早く早く!」 「はいはい」  鏡の前でスタインバイしていた向井に菜々子は生地を広げて当てた。 「でも、僕には少し、華やかすぎじゃないですか」 「光沢のある生地だからね……でも向井君は、夜に人に逢うんでしょう? だったらこれくらい着てもおかしくないと思うけど」 「決めました!」 「さあ、最後は慎也君か」  菜々子が振り返ると、なんと慎也は大西夫人と一緒に生地を選んでいた。 「俺はそんなの嫌だよ、おばあさん」 「……バカたれが。これが一番お前さんの役に立つんだよ? いいから黙って当ててごらん、菜々子ちゃん。この僕ちゃんを見ておくれ」 「はい! さあ、慎也君」 「もう……本当にこれなの?」  ぶつぶつ言っている慎也に合わせた菜々子は、この生地の滑らかさに驚いた。 「シルクが多く入っているのね。触っていて気持ちいいわ」 「まあ、軽くて気持ちいいけど……何色なのこれ?」    黒に見えるが色んな糸が混ざっていて光の加減で多彩な色を見せていた。 「値段は少し張るけど、お前さんはそれくらい着ないと他の男達に負けてしまうよ? 騙されたと思ってそれになさい」 「どうだろう、菜々子さん」 「おかあさんがそこまで言うなら騙されてもいいと思うけど、ね、三絵子姉さん?」 「どれどれ……」  ここでようやく姉が慎也の元にやってきた。 「ええ、これいいの? お義母さん、これは大切な」 「いいんだよ! この子にやっておくれ……私は疲れたから奥にいるよ」  やがてシーンとなった店内に店の電話が鳴ったので、三絵子はこれに対応していた。この間、向井と野村は菜々子に尋ねた。 「……菜々子さん。あのおばあさんは何者なの?」 「そうですよ。占師なんですか?」  慎也と向井が不思議そうに訊ねて来たので、菜々子は三人を店の椅子に座らせた。 「おかあさんはね。若い頃は高級ブランド品の店に勤めていてね。似合うスーツを選ぶから人気があったらしいわ。おかさんが見立てたスーツを着ると出世するって評判でね。結婚してここにお嫁に来ても、人気があってオーダーメイドで作るお客さんが一杯だったの」 「怖? 俺達そんな人に選んでもらったの?」 「フフフ。最近は元気無かったんだけど、向井君の話をしたら選んでやりたいって楽しみにしていたから、あんまり気にしないで」  話を聞いていた慎也はなるほどとうなづいた。 「わかった。菜々子さん。俺の生地もそれにするよ。おばあさんの話が本当かどうか俺、調べてやるから」 「そう? では今値段を出してもらうわね」  こうしてオーダーした男三人は店を後にした。  そして後日。完成の連絡を受けた三人は、各々時間のある時に店を訪問した。 「野村君ですね、では着てみようか?」  三絵子に着せられた野村は鏡の前でおおおと声を上げた。 「どう。しゃがんでみて」 「すごい……動きやすいです」 「君は体格良いからね。ジャージ並に動きやすくなっているわよ」  そこへ大西夫人がやってきた。 「……まあ、そんなもんか。これならどこに行っても恥ずかしくないさ」 「あのすみません。これ、すごく気に入ったんですけど。俺ってそんなに落ち着きが無い様に見えますか」  生地選びの時に夫人に言われた事を気にしていた野村は訊ねてみた。 「そうだね。でも良い事じゃないのかい」 「それはどういう意味ですか」 「ふふふ。スーツを着るような席は困るけどね? 日常生活だったら良い事だ。優しいニートよりもお前さんのような元気がある方がずっといい。それに上に立つ仕事をしているんだろう?」 「はい」  野村の事を見抜いた彼女は微笑んだ。 「……今はまだ若いんだから、そのままでいいさ。年を取れば誰でも丸くなって落ち着いてくるんだし」 「ありがとうございます!」  喜んで帰った野村の後に、今度は向井がやってきた。 「向井君ね。はい、着て下さい」 「うん。なんかこう……僕、ちょっと立派すぎじゃないですか」  すると店の奥から夫人が出てきた。 「いやいや。これくらいなくちゃ話しにならないさ。どれ……うん。このポケットが良かったね、三絵子さん」  どこが工夫されているのかまったく分からない向井はきょとんとした顔をしていた。 「ええ。さすがです。これのおかげで、バランスが良いもの」 「すみません。僕にはさっぱり分かりませんが」  すると夫人がスーツの裾を直しながら向井に話した。 「いいかい? お前さんのスーツはね、英国紳士の昔のデザインになっているんだ。これは小柄な男性を美しくみせる究極のデザインだよ」 「向井君。普通はね。小柄な人って身体を大きく見せるようにデザインされた服を選ぶと思うけど、これは逆転の発想で、小柄な人がより素敵に見えるデザインなの」  へえと鏡の前の彼は感心していたが、どこがどうなっているのかはよく分からなかった。 「僕は子供に見えるのが嫌なんですけど」 「……ほれ、これをあげるよ」  夫人はカフスボタンを彼の掌に置いた。 「幼く見えるけれど、可愛がってもらえるしね。脂ぎった中年よりもお前さんのような純粋無垢そうな青年の方が、好感を持ってもらえるもんさ。背伸びして大人に見せる必要ないさ。どうせ年を取るんだから」 「そう言ってもらえると嬉しいです」 「でもね。腕時計は付けなさい。他にも服以外の物も良い物を身につければ品が良くなるさ」 「ありがとうございます。大切に着させていただきます!」  喜んで帰った向井の後の夕刻に慎也がやってきた。 「来たな小僧……はい、これを着ましょう」 「お? これは」  上着のそでに手を通した慎也は、そばにいた夫人の顔を見た。 「……なんか違う?! なんだこのスーツは?」 「三絵子さん。どうだい」 「……心配なさそうですよ」  驚く慎也に関せず、夫人と三絵子は慎也のスーツばかりを見つめていた。 「おばあさん。何これ? 何も着て無いみたいだよ!」 「そうかい? で、気に入ったのかい」 「気に入るもの何も……驚きの軽さだし、温かいし、涼しいし……」  そういって慎也は身体を動かした。 「何をしても引っかからないし、見る度に色が違うし……何これ?怖い!」  その時、店に菜々子がやってきた。 「……お晩です。姉さん、慎也君、ちゃんと試着できている?」 「なんとかね。今は感想を聞いている所よ」  くるくる身体を動かしている慎也に夫人は目を細めていた。 「それは昔の織物だ……それを着るような大物にはもう逢えないと思っていたが……お前さんは王者の相があるからね……どうだい、しっくりくるだろう」 「いやーこれはすごい。気に入った! これは俺の勝負服にします」  そういって三人を振り返った慎也は照明に当たって光って見えた。 「ほう。さっそく輝きだした?……それにしても、菜々子ちゃんはこんな男をどこで見つけて来たんだい? 普通じゃないよ、この男は」 「確かに普通じゃないけど? あのね、おかあさん。慎也君は夏山愛生堂の社長さんで私はゴルフを教えているの」 「夏山愛生堂? 俊也の倅か?」 「おばあさん。親父を知っているの?」  振り向いた慎也の顔を、彼女はまじまじと見た。 「……なるほど。道理で布がお前さんを選ぶ訳だ……そうか。フフフ、先が楽しみだよ」  こうしてお会計を済ませた慎也と菜々子は店を出た。 「しっかし。親父もあそこでスーツを作っていたって知らなかったよ」 「私も。だって若い頃なんでしょう。でも慎也君。それ本当に似合っていたわよ」 「へへんだ! 俺は何でも着こなすの!」  そんな二人が仲良く駐車場まで歩いて行くのを、店の中から三絵子と夫人はじっと眺めていた。 「どういう関係なんだろう……おかあさんから見て、どうなの?」 「見るも何も、見たままだろう」  外灯の明りの中を歩く二人の影はくっついていた。夫人は語った。 「菜々子ちゃんは自覚してないかもしれないけど、あの子が可愛くて仕方が無い様だし……慎也君もまあ、甘えてベタベタで。あれで恋人じゃないって思っているのが私には不思議だね」 「菜々子って男の人と交際した事がないから、良く分からないのかも」  心配そうに話す三絵子に、夫人は顔を上げた。 「心配ないさ。慎也君に任せておけば。あの子の方がずっと強かだよ、さ、夕飯にしておくれ……」  そういって夫人は店の奥に引っ込んだ。三絵子は店じまいのためサンダルをひっかけ店の外のシャッターを締めに行った。 見上げた空には北極星が光っていた。  ……がんばれ! 菜々子! 姉さんは応援しているよ!  それをしばらく眺めた姉は、今夜の妹の笑顔を思い出しながら静にシャッターを下ろした。 完
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