233 夏山の日常 3

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233 夏山の日常 3

「おはようございます。お迎えすみません」 「いいんだ。今朝は雨だし」  雨の日は彼女の家まで迎えにくる姫野は、小花を愛車の助手席に乗せて会社へと向かった。 「ところで。夕べはどうだった」 「急に頼まれたビル掃除は良かったんですけど。同じビルで集まっていた夏山の所長さんと慎也社長に逢いました」 「逢ったって。それで済んだのか?」 「歌っただけですよ。ヤーヤーヤ―って」 「好きだな。あの人達」  この夜の所長会議に呼ばれた事のある姫野は、この光景を瞬時に思い出していた。 「今日は結構降っていますね」 「そういえばお前、最近大通り公園の花壇を気にしてないが、水やりとかいいのか」  夏山愛生堂の花壇の花の手入れをマメマメしくしていたはずの彼女に、姫野は訊ねた。 「それはですね。隣の花壇の道銀の方が任せてほしいというのでお願いしたの」 「そうか」 「今朝は雨だから……お花が喜んでいるわ」  窓から大通り公園の花壇をみている彼女はそう呟いた。そんな彼女に信号待ちで車を停めた彼は話しかけた。 「最近忙しそうだが、疲れていないか?」 「まあまあですね。会社でこっそりお昼寝していますし」 「……顔色が悪そうで心配だ」 「貧血のお薬を飲んでいるから平気よ」 「でも」 「ほら!青信号よ。いきましょう」  そういって彼女は彼の膝に手を置いた。 「鈴子は何かあったらすぐ姫野さんに言うから。心配しないで」  彼女は頭を彼の肩にそっと乗せた。 「すぐに言うんだぞ」 「瞬間に言うもの」 「約束だぞ」  こんな二人はラジオから流れる雨にまつわる曲をききながら会社へやって来た。  「おはようございます」 「「「おはようございます!」」」  本日の宿直した当番の三人は、憧れの彼女に元気に挨拶をした。 「小花さん。お布団気持ち良かったです」 「小花さん。御風呂使ったんですが、掃除しておきました」 「自分は部屋を掃除機かけておきました」 「まあ?お疲れでしたのに、お気遣い感謝申し上げますわ」  すると一人の営業マンが恥ずかしそうに一歩前に出た。 「……あの、それで。せめて記念にお写真を一枚」 「お断りします。おい、鈴子。もう行け!」  やって来た姫野が断っている間に小花は階段を上がって行ってしまった。夜勤明けの営業マンは姫野にぼやいた。 「姫野……いいじゃないか、写真くらい」 「ダメです。彼女の写真は夏山のホームページに載っております。それで我慢して下さい、では」  その頃、小花は清掃員の服に着替えて掃除を開始していた。  ……ええと。まずは中央第二に行きましょう。 「失礼します。めずらしいわ。誰もいない」  いつも渡が出社している時刻だったに、彼は不在であったので小花は掃除を始めていた。 「おはようっす。お嬢。今日もお綺麗で」 「石毛さん。おはようございます。今日は、渡さんは?」 「……ええと、出張だか会議だか法事だとか。何か騒いでいましたね。何か用があるんでしょう」  上司が不在なのに全然気にしてない彼はそういってパソコンの電源を入れていた。 「ん。なんだこの伝言は。渡部長の字だけど、お嬢わかりますか?」 「どれですか……」  手の平サイズのメモには『パンかう』と書いてあった。 「これじゃヒントが少ないわ?」 「ほおっておくか。いつか会社には来るでしょうから」  そして仕事が忙しそうになって来たので彼女はここを後にした。今度は3階の役員のいる階の掃除を始めた彼女は、背後から挨拶された。 「おはようございます。小花さん。あとで顔を出して下さいね」 「野口さんおはようございます。まあ、襟が立っていますわ?直しましょうね」  朝から近距離で彼女に触ってもらった野口は嬉しそうに秘書室に入って行った。 「おはよう!小花さん。今日はちゃんと車の鍵を掛けたから」 「おはようございます。まあ、西條さん。顔に歯磨きが付いているわ。もう、鏡を見てって言いましたでしょう?」  小花にハンカチで顔を拭いてもらった西條はニコと笑って秘書室に入って行った。それを見送っていた彼女は、今度は彼に挨拶された。 「おはようございます。まあ、社長。シャツが背中からべロンとでていますわ」 「入れたよ」 「おトイレに行った時に出たんじゃないですか。もう」  そういって小花はまだ寝ぼけている慎也のズボンのお尻の方に、シャツをぐっと突っ込んでやった。 「さ、行ってください。コーヒーを飲んでしゃきっとなさって」 「ふわ……行ってきます」  眠そうにしながら秘書室に入って行った慎也にホッとした彼女は、昨日は使わなかったはずの4階をスルーして、5階のオープンフロアにやってきた。すると早い時間なのに社員が結構そろっていた。 「今朝は何かの日なのですか?」 「そうなのよ。健康何とかの日でさ。これから体操するのよ」  そばにいた女子社員は小花に教えてくれたが、彼女はまだメイクをしておらず眉も無かったので、小花は彼女が誰か分からず適当に話しを合わせて頷いていた。 「ではこれよりラジオ体操を始めます!」  やがて小花がゴミを集めている時に、総務部長の手本を前にラジオ体操が流れて来た。  ……ラジオ体操第一、始め!チャンチャン、チャンチャン……。  これに合わせて事務員達は体操をゆるゆると始めていた。  ……チャン、チャンャァンチャァ~  しかし、段々と体操の音楽が狂ってきていた。昭和世代の人はこの曲を流しているカセットテープが暑さか古さで劣化して伸びたせいだとピンと来たが、平成生まれはそれを知る訳が無く、ただただ狂ったリズムにクスクス笑うだけだった。  しかし、総務部長は真面目にやっているので夏山社員達は狂った調子に合わせて体操をしていた。そんな中、今年入った男子事務員も張り切って運動していた。 『……大きく腕を回しましょう!い~ち、にいぃ~』 「えい! あ?」  これに合わせてまともに動いた男子社員は、積んであった書類をなぎ倒してしまった。 「うわ? すみません!」  そばにいた小花は慌てて彼に駆け寄ると、今度はジャンプの運動のせいで床が揺れて棚の上の物が二人に落ちて来た。 「あぶないですわ?」 「危なーい!……大丈夫ですか?小花さん」  男子社員に覆いかぶさってもらった小花は、大量の書類の中からやっと出て来た。 「……私は大丈夫です。もう、終りですものね」 ……チャン、チャァ~ン、チャォウウン。  最後も狂ったままで終わった危険な体操の後、総務部長は部屋が暑いと感じたのか、勝手に窓を開けて風を入れた。社内にぶわと風が舞いこんできた。 「あ、書類が飛んでしまうわ」 「俺が守ります!」  そういって男子事務員は書類の上に乗って身体でこれの飛散を止めた。これを見た彼女は、無神経な総務部長にイラとして叫んだ。 「そこ! 窓を開けないで下さい、締めなさい、早く!」  広いフロアの向うから知らない女子に怒られた総務部長は、渋々窓を締めた。 「はあ。まったく常識知らずで困りますわ。それで大丈夫ですか」 「はい。書類は無事です」 「私が心配したのはあなたの事です。お怪我はないですか?紙で手を切って無いかしら」 「小花さん……」  この優しさにに感動し胸を震わせていた男子事務員の所に、彼の上司がやってきた。そしてどうしてこんな事になったのか彼に問いただしていた。必死に説明している彼に思わず小花は加勢した。 「お話し中すみません。私、彼が一生懸命体操していたのを見ていました。真剣にやっていたので腕が当たったんだと思います。だからこの落ちた書類の数は、彼が真剣に体操した証拠ですわ」 「確かに。しかしだね。ここまでやること無いじゃないか?」 「新人さんですもの。手加減なんかできませんわ」  するとここで上司はハハハと笑った。  姫野に手を引いてもらった良子は怒り心頭で頬を膨らませていた。しかしそんな事よりも彼女の安否が最優先の彼は鈴子の頬を両手で包んでいた。 「どれ、俺の目を見ろ……。そして、好きと言え」 「姫野君。いい加減にしなよ!ここは会社で、あんたは社員だよ」 「人命優先です! どれ、最後に心拍数を」  そういって姫野は鈴子の胸に耳を当てたので、5階は悲鳴に包まれた。 「姫野さん……鈴子は、あの」 「し! 鼓動が早いじゃないか……」  良子も呆れていた時、また風が舞った。 「……5階の皆さん。朝からすみません。ほら、先輩、人間社会に戻りましょう」 「風間さんの言う通りです!鈴子は平気よ。それよりも姫野さんの方が心配だわ」  それでも彼女の手を離さない姫野の手を、良子が無理やり引き裂いた。 「小花ちゃんは他に行きなさい!で。姫君は、何の用なの!」 「は? そうでした。実は得意先の集金の話で」  ようやく目が覚めた姫野を風間が押さえこんでいる間に、彼女は廊下や階段の掃除をしていった。  そして一息ついた頃。5階の立ち入り禁止の部屋でまったりしていた時、あべちゃんから内線が掛かった。 「はい。お菓子があるんですね?参りますわ」 「……あなたのお望みとあらば。さ、どうぞ」  野口は彼女専用のティファニーの小ぶりのカップにオリジナルブレンドのコーヒーを入れてだした。 「熱そうだから、少し置きますね」 「小花ちゃん!この前の夜はサンキュ!」 「西條さん。あのヤーヤーヤは見事でしたわ。歌が御上手なのね」 「おほん。小花さん。今、西條君の歌がどうかという事でしたが?」  そういって野口は長い脚を組みながらそっと彼女の隣に座った。 「私の方が上手いんですよ。西條君よりも」 「待って下さい野口さん。俺はそこは譲れないです」 「まあ。ほほほ」  今度ぜひ聞かせてくださいね、と彼女はコーヒーをコクと飲んだ。 「そういえば、社長は?」 「風呂です」 「その後はお昼寝かな?さて、一体この会社のどこで寝ているのかな……」  慎也の寝場所は、清掃員の吉田と小花と慎也だけの秘密基地だったので、彼女は知らん顔をした。 「……いつもに増して美味しいコーヒーでしたわ」 「はい。誤魔化したー」 「小花ちゃんは顔に出るな……」  しかし。知られる訳にはいかないので、彼女はツーンと言う顔をしてカップを元に戻した。 「さあ?何の事でしょうか?私はお掃除に行きますわね」 「ほら。あべちゃんのお菓子を忘れていますよ」  そんな小花に西條が声をかけた。 「小花ちゃん。今日は社長を2時にここに連れて来てよ。頼んだぜ!」 「ありがとうございます。あの、社長はお任せ下さいね」  笑顔で送られた彼女は、昼休みこのお菓子を仲間に配った。仲間に午前中の姫野とのラブラブ事件を追及された彼女は、さっさとお弁当を食べ、昼寝をした。そして約束通りに慎也を起しに行った。 「社長! 起きてくださいませ」 「うん……起きようとするんだけど、身体が金縛りのようで」 「情けないですわ。さあ、起きて! 腹筋で!」  実の兄にしっかりしてほしい彼女はそういって慎也を起した。 「ほら。服を着て。もう、ボタンが全部掛け違いですわ」  そういいながら世話をしてくれる小花に、慎也はニヤニヤしながら、じっと立っていた。 「夏山愛生堂の社長さんですもの。びしっとしないと社員が恥をかくわ」 「そだね」 「今夜も接待ですか? 飲み過ぎは良くないですわ」 「俺もそう思うよ」 「無理はしないで下さいね……ん? どうなさったの」  まだニヤニヤしている慎也に小花はぎょっとした。 「いや、小花さんてお母さんみたいだなって、思って。嬉しくて、つい」 「……わ、私は年下ですよ?もう。そういうのは菜々子お姉さまに甘えてくださいませ」 「ハッハハ。もちろん!俺は菜々子さんオンリーだよ。さあ、行くか」 彼は小花の髪をグシャと撫でると部屋を出て行った。部屋に残った兄の香りに胸がジーンとしていた彼女は、そっと布団を片付けたのだった。 そんな夕刻。 本日のフィニッシュで中央第一にやってきた。 「松田さん。そういえばキャンプフャイヤ―はどうでした?」 「それはいいけど。マイムマイムが」 「マイムマイムをやったんですか?オクラホマミキサじゃなくて?」 「そうなのよ。男女の数が違うとかで。でも長かった……曲が終らないんだもの」 そういって松田は掛かってきた電話に対応したので、小花は床にモップを掛け始めた。 「なんか、石原さん。臭いですわ」 「へ?俺か」 「ニンニク食べましたか?」 「そういえば昼のラーメンに入っていたかも。そんなに臭いか」 「う!しゃべらないで。口臭予防の薬を飲んで下さい」 「そう怒るなよ?ええとこれか」 彼が薬を物色している間、小花は彼の背に消臭スプレーを掛けていた。 「お疲れ!なんだこの匂いは?生ごみの匂いがする」 「風間さん。今、対応しました。今日も暑かったですね」 「うん。蒸し暑いし……臭いしね。アハハハ」 そんな彼の為に彼女はさらに消臭スプレーを噴射させた。その時、姫野が戻ってきた。 「うわ!なんだ冷たい」 「ごめんなさい!石原さんが臭いのでスプレーをしていたの。もしかして顔にかかった?」 「ああ。顔が冷たくなった。温めてくれ」 「わかりました」 椅子に座った姫野はパソコンを覗いて今日の売り上げをチェックしていたが、小花はそんな彼の頬を後ろから優しく手をパーにして押さえていた。 「どう?温まった?」 「まだだ。足りない」 「姫野係長。蒸しタオル用意しますか?それとも、石原部長の人肌で温めますか?」 「なんだ?姫野は寒いのか。どれ、俺が抱きしめて」 「結構です!鈴子、ありがとうな、続きは後で」 そうケロリと話した彼は、黙々と仕事をしていたが、彼女は清掃道具を手に持った。 「でもね。私は学校の日なの。それでは皆さん、ご機嫌よう。姫野さんには後でメールしますね」 こうして帰り支度をした彼女は玄関にやってくると、今夜の宿直当番に挨拶された。 そんな彼女は外にでるとそこは雨だった。 彼女はレイン用のジョギングウエアを着て傘をさして駅まで歩いた。 ……今夜はテストだっけ?ええと……。 今頃になってテストの範囲を思い出していた彼女は札幌駅を目指して雨の中を歩いていた。 北の夏夜の雨は冷たく彼女に降っていた。 黒い道路に車のライトが光り、タイヤが水しぶきを上げて通過して行った。 一人暮らしの忙しい毎日。 でも大好きな掃除の仕事。 優しい仲間。 でも、嫌いな勉強。 ……お父様。お母様。鈴子は今日も頑張りました!後はお勉強して帰ります。 そう心に話した彼女はこの冷たい夏の雨の道を、水たまりを避けながら、今夜も楽しそうに弾むように歩いて行ったのだった。 完 <2019.4.9>
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