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234 恋ゴルフ 16
「あれ? これって……」
仕事を終え着替えをしていた菜々子は、スマホの着信に気が付いた。
「どうしたの星野さん」
一緒に着替えをしていた同僚が彼女に振り返らずに声を掛けた。
「なんか仕事中に電話が来ていたんだけど。これ……不動産屋さんなのよ。やな予感……」
「折り返し電話してみれば?」
「う~ん……」
夜勤明けの朝の7時。電話が来ていた昨夜の10時は勤務中であったの出られなかった菜々子は、一まず自宅に帰ってから電話をしようと勤務先のプリンセスホテルを出た。今日は地下鉄を利用した彼女はマンションに辿り着いた。
マンションの玄関には警察官が立っており物々しい雰囲気で彼女はたじろいでしまった。
「あのすみません。私ここの住人なんですけど。何か事件があったんですか?」
「……住人の方ですか? もしかして星野菜々子さん、ですか」
「そうですけど。あの、私何か?」
するとマンションの玄関からくたびれた中年男が顔を出した。
「あ?星野さん!ああ、もう!」
このマンションを紹介してくれた鶴亀不動産の鶴亀は、菜々子に駆け寄ってきた。
「困るじゃないですか! 電話に出て下さらないと」
「すみません。勤務中でしたので。ところで何が合ったんですか?」
「こっち! こっちに来てください」
そういって鶴亀は菜々子をマンションのエントランスにあるソファに座らせた。
「その様子だと事件の事を知らないんですね」
「事件? 何の事ですか」
はあと肩を落とした鶴亀はそばにあったペットボトルのお茶を飲んだ。
「爆発したんです」
「もう一度」
「星野さんの下の部屋が爆発したんです」
「……はあ?」
菜々子は彼の話している意味が分からず、黙って鶴亀の薄い頭なんか見ていた。
「テレビを見た方が早いか。ええと北海道テレビっと」
鶴亀はそういって傍に合ったテレビを勝手に付けた。するとこのマンションが映った。
『……中継です!私は今現場に来ています。事件の合ったのはあの5階の部屋になります。御覧のようにまるで穴が開いたようになっています……』
そこにはマンションの一室が吹き飛んでおり、それは上下左右の部屋まで及んでいた。
「あのカーテンがひらひらしているのは、星野さんの部屋ですよ」
「嘘でしょう? どうしてこんな事に……」
鶴亀はポケットから出したタオルハンカチで汗を拭きながら話し出した。
「住んでいた男性は、捨てようと思ったスプレー缶のガス抜きをしていたようでして。それが何か引火してこの悲劇に」
「……その男の人は?」
「火傷をしていますが。命に別条はないようです」
「不幸中の幸いですね……あ? 下の部屋の人は?」
「ちょうどその時刻、セイコーマートに買い物に行っていたんですよ。でも戻ってきたら部屋が木っ葉微塵のありさまで」
「ちょっといいですか? 私、動悸がしてきて」
自分も部屋にいたらと思うと菜々子は気分が悪くなってきた。
「お気持ち察します……。私も連絡を受けて血の気が引きましたよ。しかも星野さんとは連絡が取れないし」
「夜勤でしたので……でも良かった仕事していて」
鶴亀の話しによれば、菜々子の部屋の家具や電化製品は使用不可。ベッドは未確認で、食器も一部割れているが、その他の洋服などの日常品は大丈夫そうだと話した。
「消防はあの荷物の中に星野さんがいるんじゃないかと思って、散々探していました」
「謝っておきます。あの、私の部屋ってどうなるんですか?」
鶴亀は別のマンションの空き部屋を同じ家賃で用意したと説明した。
「でも今あの部屋は警察の現場検証と、建物の安全確認が出るまで近寄れません。だから申し訳ないのですが、荷物も出せないんですよ」
「えええ? どうしよ?」
「困りますよね、私も困っています。どうしてこんなことに……」
ショックで打ちひしがれている中年メタボ鶴亀に、菜々子は申し訳なくなってきた。
「事情は分かりました。私、当分仕事しか予定ないので、着替えとかは買って済ませます。でも、その新しい私の部屋って、今日から住めるんですか?」
「使用できますが、申し訳ありません。布団とかは無いです。後で請求して下されば、こちらで払いますので……鍵は……しまった?会社だ! ……すみません! あ? 下の階の人だ。お待ちください?」
鶴亀はこうして他の被害者の対応に追われていた。下の階だけでなく、左右も含まれているようで、ここはかなりパニックになってきた。
鶴亀からせめて仮のマンションの鍵を預かりと場所を聞きたい菜々子だったが、ここのマスコミもやってきて慌ただしくなってきた。
……疲れた。鍵も今は用意してなさそうだし。後で自分で鶴亀不動産に行こう。
こうして菜々子はマンションに停めてあったマイカーに乗り、円山ゴルフ練習場に向かった。
「やはり菜々子さんのマンションでしたか? 夜勤と思ってはいたんですが、まさか事件の上の階とはね」
胸にキティちゃんのワッペンを付けた小林は、疲れていた菜々子に飲み物を出した。
「私何も知らないで、マンションに戻って知ったんです」
そして彼女は、ここで少し運動してから鶴亀不動産に赴き、仮住まいの用意をすると話した。
「それは面倒ですね……そうだ? ここの従業員の部屋をお使いなさい」
現在は誰も使用しておらず、寝具も揃っていると言う。
「確か菜々子さんはしばらく夜勤ですよね。だったらここで寝て行きなさい。シャワーもあるし、日中は私もおりますので安心でしょう」
この時、すでに菜々子には軽い眠気が襲ってきていた。
「いいですか? ではせめて今日だけでも。なんか小林さんの声を聞いていたら私……眠くなってきて」
ほらほら、と小林の勧めで、菜々子は畳に敷いてもらった布団で、あっという間に眠ってしまった。
小林はエアコンを設定してやると、そっとこの部屋を出て行った。
「おはようございます!」
「お? 慎也君。どうしたんですか。こんな午前中に」
「有給です。一度取ってみたくて……どうかしたんですか?」
背後の部屋で菜々子が休んでいる事を、一応言わない方がいいと思った彼は何食わぬ顔で慎也に対応した。
「別になんでもありません。今日はあれですか? 野村君とは向井君と約束しているんですか?」
「俺の予定はメールで伝えましたけど。来るかどうか分からないです。あの、俺打ってもいいですか?」
「は? どうぞ、どうぞ!?」
少し慌ててしまった小林だったが、持ち前のポーカーフェイスで仕事を進めた。
いつもの奥の打席でボールを打とうと思った慎也だったが、そこは初老の女性に使用されていた。
……そうか。今は午前中だもんな。
見渡す限り客はシニアばかりでいつも夜に利用している慎也にとっては別世界だった。
「ちょっと! お兄さん。これ、球が出ないんだけど?」
「え? 俺ですか?」
慎也を従業員だと勘違いしたシニアの女性に、彼は快く対応した。
「ええと……お客さん、カード入れました?」
「入れたわよ。あれ? 出てきてるわ」
「ほら! カードが裏になっていました。これでボールが……出て来ましたね。どうぞ、ごゆっくり!」
いつも菜々子の仕事をみていた慎也はそれなりに対応し、自分の打席を探していた。
「おい、兄さんよ。打っても打っても、当たんないんだけど?」
「マジですか? ええと……。クラブは持っているんですよね。では、どうぞ」
慎也は高齢の男性のスィングをじっと見ていた。
「それでは全然当たりませんね。ボールはもっと下にあるんですよ」
「下? もっと? でも、芝にごっつんこしないかね」
「待って下さい」
恐怖心のある彼の為に、慎也はボールを乗せたティーを一番高く設定してやった。
「いいですよ! 思い切って行ってみよう!」
パコーーーン!!
「ナイスショット! 凄いじゃないですか? 当たりましたよ! カッコいい! すげえ?」
心清らかな慎也の賛辞に男性は顔をほころばせた。
「いや~? 偶然ですよ」
「偶然にしても大したもんですよ。さあ、忘れないうちにどうぞ」
パコーーン!
「ヒュー――? ナイスです! 今は芯を捕えていました! いい感じ」
パチパチと拍手する慎也に彼は頬を染めた。
「先生。そんなに褒めても何にもでないよ」
「出ましたよ? スーパーショットが? 嫌だなお父さん!」
天然ボケのお人よしキャラが良い方向に働いた慎也は、この後の老齢者に声を掛けられまくっていた。
「慎也君。済まないね。みなさん、君をコーチと間違えていて」
忙しくしていた小林に慎也は首を振った。
「ハハハハ。いいんですよ。見ているだけですから」
しばらくすると自分も打ち出した彼だったが、老齢者が話しかけてうざいので、小林は一旦、受付けで休憩するように声を掛けた。
「すみません。みなさん、慎也君を気に入ってしまって」
「いいえ? 気にしないで下さい。しかし、午前中はシニアの方が多いんですね」
こうして慎也はもらったお茶を飲んでくつろいでいた。
……しかし。菜々子さんに全然逢えないな……。
夏休みを取得する家族持ちの同僚のために、独身の菜々子は休みが取れない事を知っていた慎也は、今日のような日中なら、もしかして彼女がここにいるのかなーという邪な気持ちも持っていた。
……おかしいな。菜々子さんの車はあるのに。
ここに駐車したまま仕事先に向かう事もあるので一概には言えないが、彼はスマホを取り出し、彼女に『お土産気に入った?』とメールを送った。
……♪……
確かに自分以外の着信音らしき音が聞えた慎也は、首をひねった。
……もう一度送ってみよう……『逢いたい』
……♪……
これに慎也は思わず立ち上がった。その時、小林が受付にやってきた。
「慎也君。もうすぐここにいつもの受付おばさんが来るんです。悪いですが、彼女が来たら交代してくれますか?」
「分かりました」
そういって小林は、玄関の方へ行ってしまった。
……それよりも、さっきの音だ。
慎也は居てもたってもいられず、受付の奥の部屋をそっと開けた。
「うわ? 寒い! 冷房効き過ぎじゃないか……あれ?」
「スースー……」
そこでは愛しい彼女がスヤスヤと眠っていた。
……どうしてここに?
驚きと嬉しさで叫びそうになった慎也は口を抑えながら菜々子の枕元に近寄った。
……タイマーセットしている……四時まで寝るつもりか……。
すると菜々子が寝ぼけながら呟いた。
「寒い……」
「おっと? 冷房を自動にするか」
慎也が設定を直すとエアコンの風は優しくなった。しかし、ノースリーブ姿の菜々子は震えていた。
そんな彼女に慎也はうすい布団を掛けてやったが、菜々子はまだ寒そうだった。
……菜々子さん……
慎也はそんな菜々子の横に添い寝するように隣に寝転んだ。
「……スースー……」
優しい顔で眠る愛しい彼女に慎也は目を細めた。
……逢いたかったよ……
誰もいない事をいい事に、慎也は菜々子の耳元に顔を埋めた。彼女の匂いがした。
……いい匂い……ずっとこうしていたい……
彼女に包まれた気がした慎也はいつの間にか、眠ってしまった。
「小林さん! こんにちは! あの、慎也君は?」
「それが……午前中はいたんですが、ここで休憩してから姿が見えないんですよ」
受付にいた小林は心配そうに向井に話した。
「おかしいですね。車はあるのに……この練習所のどこかにいるんですかね。僕、メールを送ってみます」
……♪……
「今の音、小林さんのスマホですか?」
「私の音と違いますね……もう一度いいですか?」
向井がメールを送ると、また着信音がした。
「いやはや……抜け目ないというか。鼻が効くと言うか……」
そういって小林は奥の部屋に入って行ったので、向井もこれに続いた。
「え?……何してんの? 慎也君」
そこで二人は気持ちよさそうにくっついて眠っていた。
「慎也君を叱らないといけないのでしょうが……はあ」
「なんていうか。僕もなんて言ったらいいのかわからないです」
「ううん……あれ?向井君?どうしてここに」
寝ぼけている菜々子は、目をこすりながら起きようとした。
「重い……なにこれ。え?慎也君?」
「ん……もう起きちゃうの……まだ寝ようよ」
この様子に呆れた小林は今の時刻を告げると向井と一緒に部屋を出て行った。
「ふわあ?どうしてここに慎也君がいるの」
あくびをしながら布団から身体を起こした長い髪の菜々子は、まだ少し寝ぼけていた。
「逢いたいと思っていたら、菜々子さんがここにいたんだ」
そういって慎也は菜々子に手に指をからませてきた。
「もう答えになってないし……仕事は?」
「今日は有給。菜々子さんは?」
「また夜勤。ふわぁ?ごめんあくびが出て……」
そんな彼女の膝に、慎也は頭を載せた。
「もう少しこのままでいたい」
そう言って頭をごろごろ動かす慎也のおでこを菜々子はペチと叩いた。
「ダメよ。もう起きてシャワーを浴びないと……あのね、本当にどうしてここに慎也君がいるの?」
ようやく目が覚めて来た菜々子は、このきわどい状況に気が付いてきた。
「つまんないな。せっかく久しぶりに逢えたのに」
そういって慎也は繋いでいた菜々子の手を甘く噛んだ。
「こら?もう慎也君」
「逢いたかった……菜々子さんは?」
まだ手を掴んでいる年下の男の子に、彼女は為す術が無かった。
「……逢いたかったわよ。それにお土産ありがとう」
「やった!菜々子さん大好き!」
そういって慎也が抱きついた時、我慢の限界だった向井と野村が部屋に入ってきた。
「こら!慎也君!いい加減にして下さい」
「そうだ!離れろ」
「い、や、だ!ね?菜々子さん」
「……」
顔を真っ赤にして硬直してしまった菜々子から、向井と野村は慎也を引きはがした。
その間に菜々子は部屋を飛び出しシャワールームへ向かってしまった。
「もう!せっかくのラブラブタイムだったのに」
「慎也君は本当になんていうか」
「……ああ。さすがというか、大物だぜ」
こうして三人は改めて小林から菜々子の状況を教えてもらった。
そしてシャワーを浴びすっきりした菜々子だったが、このどっきり寝起きがあまりにも恥ずかしくて三人に逢わせる顔が無く、顔にタオルを巻いてこそこそ通路を歩いていた。
「あ!いた!菜々子先生」
向井の大声にびびった菜々子は、これに逃げ出そうとした。
「待って下さい。事情は訊きましたから」
「野村君……」
画体の良い野村に腕を掴まれた菜々子は観念して、彼らの言う通りにゴルフ場のレストランにやってきた。そこには慎也がちょこんと座っていた。
「ほらここに座って。みんなで何か食べましょう。お代はぜんぶ慎也君が出すそうですから」
うんうんとうなずく慎也に、菜々子はおもわず笑みをこぼした。
こうして夕刻に食事をした彼らに菜々子の口から事情を話した。
「今夜はこれから仕事に行くけど、明日は仮のマンションに行くから心配しないでください」
「そうですか。それなら家に来ます?親もいますけど」
冗談なのか本気なのか野村はそういってコ―ヒーを飲んだ。
「いいえ!ぜひ僕の家にどうぞ!僕の部屋は綺麗ですよ」
「何を言っているんだよ二人とも……俺の家に決まっているだろう?ねえ菜々子さん」
「あの。お気持ちはありがたいんだけど。大丈夫よ」
そうってもぐもぐサラダを食べている菜々子に向井は首をひねった。
「でも菜々子先生はお仕事ですよね。その用意とか引っ越しって一人じゃ大変でしょう」
「大丈夫。もう手配したから……あ?もうこんな時間?行かなきゃ」
慌てて席を立った菜々子を慎也は追いかけてきた。
「あのさ。明日の土曜も俺時間あるからさ。菜々子さんを手伝うよ」
「そんなのいいのに」
「いいの!一緒にいたいの!ダメかよ?」
頬を膨らませている慎也に、菜々子はこれを承諾し、仕事に向かった。
そして翌朝。菜々子の仮住まいのマンションで待ち合わせをした慎也は彼女の話を理解した。
「菜々子。うちで余っていたから布団はこれを使って。あとで返してくれればいいから」
「菜々子。服はこれでいいでしょう?姉さんもう着ないから」
「あのね。菜々子さん。このお姉さん達は?」
「三番目と五番目の姉よ。姉さん、こちらは」
すると姉がくるりと振り向いた。
「知っているわよ……夏山愛生堂の社長の慎也さんでしょう?姉さん、月刊北海道を、近所の北友堂書店で10冊取り寄せしたんだよ」
「しかし。まさか年下とはね……菜々子もやるわね?」
姉の存在感に圧倒された慎也は、菜々子の腕を掴んだ。
「ごめんね。私は末っ子だから姉がこうして全部世話を焼いてくれるのよ。自分でもできるけどね、勝手にやったらこの人達怒るから」
「何を言っているのよ?失礼でしょう。慎也君」
「失礼なのはそっちよ。私はね、こんな感じで昔からお下がりばっかりだったのよ」
「そう?お下がりじゃない物あるじゃん」
この慎也の声に、二人の姉の動きが止った。
「俺!ね?どう」
そういって菜々子に抱きつく慎也に二人の姉はおおと驚いた。
「そのまま!今、写真撮るから」
「それにね。慎也君。この布団、大きいからね。一緒でも大丈夫よ」
「ありがとうございます。お姉さん!」
可愛い慎也のキャラにすっかり虜になった二人の姉は、大騒ぎして帰って行った。
「はあ……どうしよう。これから」
「なにが?あのさ。それよりも菜々子さん寝なくていいの?今夜も夜勤でしょう」
そうだった!と菜々子は手をパンと叩いた。
「フフッフ。俺さ、何もしないし、下の店で買い物とかしたいからさ。ここで寝なよ。ね?」
「そうさせてもらおうかな。ふわぁ……」
仕事で疲れていた菜々子はそういって横になるとすぐに寝てしまった。
……相当無理しているみたいだな。
彼女の髪を慎也はそっと撫でた。
……大好きだよ……
彼の頬にキスをした慎也は、やっぱり彼女の横に寝そべった。
……ねえ?菜々子さん……
彼女の耳元に顔を埋めて慎也は目を瞑った。
夏の札幌の昼下り。7階のこの部屋には心地よい風が入って来ていた。
スースーと彼女の吐息が聞える幸せに酔いながら、慎也もまた眠りに着いた。
完
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