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207 北大植物園に行ってみた
「小花さん?どうもお久しぶりです」
「水沼さん。ご連絡ありがとうございました。今日の授業は宜しいのですか?」
「はい。今日もう済んだので、僕の事は気にしないで下さい。さ、行きましょうか」
平日の午後。半休を取った彼女は北海道大学の植物園に来るため北大の入り口そばにある『エルムの森』という土産品などを販売している店で大学生の水沼と待ち合わせをしていた。
「それにしてもすごい観光客ですよね」
「僕もそう思います。何も面白い所は無いのに」
札幌駅から比較的近いとされる日本最大の広さのキャンパスには、今日も観光客はたくさん歩いていた。
「外国の方もいいんですね。あと小さなお子さんも」
「公園感覚で入って来るんですよ。僕は自転車なのでちょっと迷惑です」
「確かにね。ここが学校ですものね」
敷地内を流れる小川で遊ぶ幼児や、薄着の外国人をみて二人はそっと呟いた。
「あの川はなんていう名前ですの?」
「サクシュコトニ川です」
「はい?もう一度」
「ハハハ。サクシュ琴似川です。冬でも流れているので、ここはカラスがうるさいんですよ」
「サクシュコトニ川ですね。なんとか憶えましたわ」
そんなガイドをしながら彼らは植物園を目指して歩いていた。
「しかし本当に広いですわ。バスを走らせたくなりますわ」
「巡回バスは便利だと僕も思いましたが。多分観光客の人が載って学生は乗れないと思います」
「学生オンリーにすればいいのよ」
「どうして小花さんがそんなに怒るんですか?ハハハ」
同じ年の二人は楽しく話をしながら広い敷地を進んで行ったが、まだ着かなかった。
「確か、水沼さんは道外出身ですよね。でも、地元の人みたいです」
「良く云われます。母が札幌出身なので、僕は栃木県なんですよ」
「栃木?魅力ある都道府県で常にワースト3の北関東のあの栃木ですか?」
目を見開く彼女に彼は眉を下げた。
「良く知ってますね?そうですよ、ワースト3は茨城、栃木、群馬でワンツーフィニッシュですから」
歩きながら嬉しそうに話す水沼の横顔を小花は見ていた。
「世界遺産の日光があるのですが、それが栃木だって誰も知らないんです。僕もこっちにきて栃木っていっても分かってもらえないので、東京の方と嘘を言っています」
「ご苦労があるのですね……」
「群馬も茨城も同様ですし……。それにまだ自分は北海道と栃木のハイブリッドなので、言葉は母のおかげで訛らないで話せるので、そこだけは感謝しています」
「でも良い所ですよね?私の記憶には苺の『とちおとめ』の生産が日本一ですよね」
「良い所か……。ハハハ、ありがとうございます」
こうして二人はやっと植物園にやってきた。
「殿見教授、小花さんです」
「お、来たか。どうだ、すごいだろう」
「うわ……こんなにたくさん」
ビニールハウスの中では、苗のポットがたくさん置いてあった。
「これらは全て冷涼な北海道でも生育できるように改良された野菜の苗だよ」
「近年は温暖化ですものね。今で作れなかった野菜もできるようになるんですか、すごいわ」
「ハハハ……おっと?ここで感心している場合では無かった?ほら、以前君が言っていた冬のカトレアの話だ。あれを実際にやりたいので、こっちで見てくれ」
「はい!」
「小花さん、こっちです」
小花は真冬の札幌で暖房無しで熱帯植物のカトレアを咲かせていると聞いた殿見はそれえを実際にやってみたいと思い、元教え子の姫野に頼んで小花を呼んだのであった。
用意された専用のコーナーには水沼の後輩の女子が数人おり、小花は彼女達と楽しく話しながら花の手入れを伝授した。
彼女は専門の勉強をしていたわけではないが、同居の祖母の知恵と己の創意工夫による実体験を学生に話して行った。
「小花さん。そろそろ終わりですか?こっちで休んで下さい」
「もうそんな時間ですか」
水沼は花を学生に任せると彼女を殿見教授の部屋に連れて来た。
「お。済んだか、そこに座りなさい。仕事をしてきたんだってね」
椅子に座った小花に、教授は丁寧に紅茶を淹れ出した。それを見ながら小花は殿見に気になっていた事を訊ねた。
「教授。あのポプラの木ってオスとメスがあるって聞いたんですけど。どうやって見分けるんですか」
「……見た目で言えばね、背が高くでスラっとした姫野君みたいのはオスで、横に広がって木はメスなんだ。一番明確なのは、メスはこの時期綿毛を飛ばすから、帰りにポプラ並木を良く見てごらん……さあ、どうぞ」
「ありがとうございます……良い香りですわ?ハーブティーですか?」
「園で育てた物だから心配しないで。私も座って飲むか……はあ。水沼君はハウスの方をみて鍵を掛けて来てくれ」
こうして高齢の殿見と一緒にまったりとお茶を飲んでいた小花は、先日自宅で生えたケシの花の話をしていた。
「あれは車のタイヤとかで運ばれるんだよな。以前はどっかの公園にポピーのつもりで植えた一面の花が、全部禁止のケシだったんだよ。あれを焼却していた様子を見たが、地獄絵図だったな……」
「悲惨ですわ?……あれ、これは月下美人ですか」
「さすがだね!そろそろ、咲きそうなんだ」
月下美人というサボテンの花は、夏の夕刻に咲き始め、朝にはしぼんでしまう一夜の花だ。しかしその強い香りと月の下で咲く美しさは、夏の夜を魅了するのだった。
「香って来ました!先生」
「おおお!写真を撮るか」
そう言って二人は咲き始めて来た花を写真に収めて行った。
「恥ずかしそうにゆっくり咲くんですね………いじらしくて、可愛らしいわ……」
このサボテンの花に若い学生は興味を持ってくれないので寂しかった殿見はようやく話し相手が出来て感動していた。
「上を向いて咲いているわ……。元気があっていいですね」
「上向きが元気?」
「はい。あの、クリスマスローズってあるじゃないですか?綺麗はお花ですけど、あれは下を向いて咲いているので、つい励ましたくなるんですの」
「ハハハハ!確かにそうだな。そうか、上を向いて咲こう、か」
そんな時、誰かがノックして入ってきた。
「姫野です。お久しぶりです」
「なんだ?もう来たのか?せっかく彼女と花を観ていたのに」
「だって約束の時間じゃないですか」
「そうなんですか?私ちょっとさっきの人に言い忘れたことがあるので、話して来ます!」
こうして彼女の居なくなった部屋で、殿見は教え子に相談した。
「実は私も年なので、ここを辞めようかと思ってな」
「そんな年齢ではないと思いますが。何か他にしたい事があるんですか?」
「ああ、元気なうちに高山植物を観たいと思って。北方領土とかに行きたいんだよ」
冷涼で未開発の地には手つかずの植物があるとされており、昔から殿見は行きたがっていた。
「それに研究をするには肩書はもう必要ないと彼女に教わったよ。『大切なのは疑問を持ち続けること。神聖な好奇心を失ってはならない』とアインシュタインの言葉どおりさ」
「鈴子がまた何か言ったんですか?」
「何も?ただ毎日の暮らしの中で好奇心を膨らませ、常に考え事をしているようだね。気にしてはずいぶん可愛い人を見つけたね」
「自分もそう思います。死んでも離しませんので」
「ハハハ。これは大変だ?姫野君も言う様になったな」
その時、教授の部屋に水沼がやってきた。
「あれ?小花さん戻りました?」
「君達の所に行ったはずだが」
「また迷子じゃないか?しかし、彼女のスマホはここにあるぞ……」
これに姫野は血相を変えた。
「自分が探して来ます、あれ、いたのか?」
ドアの向うには中に入ろうとしていた彼女がいた
「やっぱりここね。迷子になったんですけど、この香りがしたんですわ」
そういって半分程ひらいた花を彼女は見つめていた。
「でも帰ります。これは咲いたらしぼんでしまうから……咲く前にお別れしたいの。さようなら月下美人さん」
「……小花君。またおいで。今度は姫野君なしで」
「小花さん。又遊びに来てください」
こうして二人は殿見と水沼と月下美人に別れを告げて、宵の北大キャンパスを歩いていた。
「ねえ、姫野さん。あれは何?」
「ん?農学部の奴らだろう」
「そうではなくて、バーべキューをしているんですか?」
「ああ。それがどうかしたのか?」
大学内で普通にバーベキューをしている学生達に、彼女は目をパチクリさせて歩いて行った。
「あのね、姫野さん。お聞きしてもよろしいかしら」
「何でしょうか」
腕を組みながら彼女はそっと彼を見上げた。
「殿見教授のお部屋に集合写真がありましたが、先日ここでお会いした理沙さんも姫野さんの隣で映っていましたわ」
「そ、そうか?」
いきなりここで元カノの名前が出て来たが姫野はこれを顔に出さずに必死で返事をした。
「お付き合いしていたんでしょう?」
「へ?」
隣を歩く彼女は普通に訊ねて来た。
「だって姫野さんの車に、理沙さんの名前のポイントカードみたいな物が入っていましたし。お二人とも仲がよさそうでしたもの」
「あ、あの、それは」
「していたんでしょう?」
もう逃げられない彼は、組んだ腕にぐっと力を込めた。
「……そうだよ。昔の話だ」
「やっぱりそうでしたか……」
少しショボーンとした彼女の肩を彼は抱きしめながら歩き続けた。
「どうして、急にそんな事を?」
「理沙さん。お綺麗な方でしたから、その……大人っぽくて」
グラマーだった理沙を思い出した彼女は、冷たい夜風に服のファスナーを首まで上げていた。
「鈴子……」
姫野はそんな彼女の頬にキスをした。
「俺はお前が好きなんだ。さ、帰ろう」
「どこが」
「そうだな、ガンバリ屋さんで、元気があって」
「頑張らないとできないんですもの」
「優しくて、親切で」
「優しいも親切も同じようなものです」
「料理も上手で、お裁縫もできるし」
「だって誰もしてくれないんですもの」
「歌が上手だろう?あとは走るのが早いし」
「もういいです……頭脳はさっぱりですもの」
「そんなこと無いさ。ほら、顔をあげて!」
そうって彼は彼女の眼もとにキスをした。
「……教授は言っていたよ。お前は勉強家で立派だって」
「本当に?」
「ああ。あの先生は、嘘は言わない。風がでてきたから、もっとおいで」
「うん!帰りましょう!」
彼の言葉に笑顔になった彼女はその小さな顔を挙げた。
北大キャンパスの並木道。
月下の元、照らされた夏の恋人達は、優しく寄りそって帰って行った。
完
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