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ツンツン様
「ツンツン様がくるよ」
祖母のしわくちゃの口元がもごもごと動き、聞き慣れない単語を紡いだ。
「つんつんさま?」
凛子はきょとんとして祖母の顔を眺めた。目も口も鼻も皺の中に埋もれてしまったかのような、そんな老婆の顔がこくりと頷いて、再びもごもごと蠢いた。
「夕暮れに外に出ちゃあいけないよ。ツンツン様が来るよ」
そういうと祖母はふっと黙った。気の遠くなる年月を経すぎてついに化石になってしまったかのように、顔の皺ももう動かない。
別に寝ているわけじゃない、と凛子は最近気がついた。ただ、動かないだけなのだ。
海の近くに建つ祖母の家で暮らすようになって半年が過ぎた。
この半年の間に凛子はほとんどしゃべらなくなった。東京にいたときは随分とおしゃべりな女の子だったのに。
あまり声を立ててはいけない気がする。ここがあまりにも静かな世界だから。全ての音は、波の音にかき消され、呑み込まれてしまうかのようだ。
それに祖母は耳が遠いから、そんなにたくさん会話をすることはできない。
小学校でも、なかなか友達になじめなかった。
全校生徒15人の学校。誰かにいじめられているというわけでもないが、他の子が自分を見る目に「ヨソモノ」という色が浮かんでいるような気がして自然と気後れしてしまう。
(ツンツン様って誰だろう? お化けかな? こわいのかな?)
凛子は錆び付いた窓枠に体をもたせかけながら海を眺め、さっき祖母が口にした「ツンツン様」について考えていた。
暮れていく夕焼け空の光を反射して、波立つ海は蜜柑色にきらきらと輝いている。
「りんこちゃん」
ざわめく潮騒の合間を縫って、不意に、耳にはっきりと優しい声が響いた。
「あ、お母さん!」
凛子は思わず叫んだ。もう二度と会えないと思っていた母の声だった。
「りんこちゃん・・・・・・」
声は、凛子のすぐ耳元で語りかけているようでも、海風に乗って遙か遠くから響いてくるようでもあった。
凛子は急いで玄関のサンダルをつっかけ、開けっ放しの戸口の敷居をまたいで小走りに外へ出る。
「ツンツン様」のことがちょっぴり頭によぎった。夕暮れ時に外に出ちゃいけない、と祖母が言っていたことも。
でも、と凛子は思う。お母さんが呼んでるから。お母さんが一緒なら大丈夫だ。お母さんがいれば、きっとツンツン様も近づけない。
半年前、なぜ自分のそばにお母さんがいなくなってしまったのか。
なぜ自分は寂しい田舎の漁師町に、おばあちゃんと二人きりで生きて行かなくはならなくなったのか。
幼い凛子には、その理由はよくわからない。分かるのは、もうお母さんには会えない、ということ。それだけだった。
だから、思いもかけずお母さんの声が凛子を呼んだことが、凛子にはとても嬉しくて大変なことだったのだ。
凛子は、浜辺に続く坂道を息をきらして駆け下りた。
凛子の他に人の気配のない、がらんとした道。ただ、波の音と夕焼けの光だけが満ち溢れ、凛子を包み込む。
凛子の足がふと、止まった。
道の脇の畑のそばに「影」がいた。
人のような、人ではないような、どす黒い「影」のカタマリ。
(ツンツン様だ!)
凛子の肌が粟だった。
ツンツン様の影は、ぶるり・・・・・・ぶるり・・・・・・と細かに泡立つように震え、ぱあっと広がったり、きゅうっと縮まったり、を繰り返していた。
だがそれは、明らかに人のカタチをした影だった。
凛子は逃げようとしたが、ツンツン様に見入られてしまったかのように足がすくんで動けない。凍り付いたようにその場に突っ立ったままだった。
ざあ・・・・・・ん・・・・・・ざあ・・・・・・ん・・・・・・、と波の音だけが木霊する。
海の向こうに沈む日の光がだんだんと弱まり、夜の闇をつれてくる。
ツンツン様の影はふわっと広がり、動けない凛子の上に覆い被さってきた。
べっとりとした黒い影が凛子の髪に、目に、鼻の中に・・・・・・全身に絡みつく。
もがいても、もう遅い。
母を呼ぼうと口を開けた。しかし、影はすかさず凛子の喉の奥に流れ込み、舌の根をおさえつける。呼吸を止めにかかる。
凛子の体も意識もはっきりとした形を失ってツンツン様の影の中にどろりと溶けていく・・・・・・。
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